おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

博多の連隊 【前半】  (第1311回)

 余りに長い間、更新しなかったので、ブログに申し訳ない。せめてもの手当に、他で書いた文章を二回にわたり転載します。そちらの主題は太平洋戦争で、ガダルカナルの戦いの話題。


 今回は一休みして余談です。第百二十四連隊は福岡の編成。ところで、「最悪の戦場に奇蹟はなかった」の高橋伝さんは、その著書で複数回にわたり、自分たちは博多の連隊だと言っている。自慢している。

 福岡市には学生時代に二回、行ったことがあり、うち一回はゼミの大会。もう一回は、当時そこらで簡単には見つからなかった明太子やとんこつラーメンや馬刺しや芋焼酎を飲み食いするため、お金をためて旅に出た。西鉄に乗って、大宰府のそばに泊まった。

 そのころから、行政区分は福岡市なのに、山陽新幹線の駅名が博多なのが不思議であります。きっと「浪速」とか「琉球」とか、土地柄や歴史や文化に関わるような捨てがたい地名なのだろう。地元の方々は、どのように使い分けているのかな。


 詳しく説明できるわけではないが、十年ほど前に或る調べ事をしていた際、福岡の名の由来を説明した文章を読んだ。司馬遼太郎播磨灘物語」にある。名付け親は如水こと主人公の黒田官兵衛孝高。

 私の姻族は父方も母方も、美濃国の東端(今の岐阜県揖斐川町)の出身で、山高く谷深い、縄文時代から変わっていないようなムーミン谷に今も一族が住んでいる。


 この山村の住民は、自分たちが黒田官兵衛の子孫であるという言い伝えを持ち、また、なぜか私でもすんなり読める「古文書」に、官兵衛の弟の子孫であることを示す家系図や一家の歴史の説明書きがある。

 大きく出たものだが、かろうじて傍証と言えそうなものが二つあり、一つは黒田家に関わる人たちと共通の名字があること。もう一つは、その山村から伊吹山山系の山一つ越えると琵琶湖のほとりに出る。

 官兵衛の黒田家は近江国の出身で、この琵琶湖の東側あたりから出たということになっているそうだ。ちなみに、この伊吹山近辺から南にまっすぐいった辺りに関ヶ原がある。雪が多い。


 黒田といえば筑前国福岡藩だ。黒田節で名高い。「養生訓」で名高い貝原益軒は、この福岡藩お抱えの儒学者だった。殿様に頼まれて「黒田家譜」という分厚い黒田家の家系図と立身出世の歴史を書き上げた。

これによると、官兵衛に至る血筋の前半部分は、かの「尊卑文脈」に掲載されているとおりで、宇多源氏の項にある佐々木源氏、京極家の直系である。近江国は佐々木・京極と縁が深い。乃木希典も佐々木家だから、うちの親戚です。



 問題はその先だ。家伝では、官兵衛の三代前すなわち曽祖父にあたる黒田高政の時代に、理由は諸説あるが、近江国を出て、はるか備前国岡山県)の福岡に移り住んだ。今の長船町福岡あたる。古くからの銘刀の産地だ。

 先回、川口支隊長から伝令の命令を受けた中山博二中尉(福岡市出身)が、道中敵方と思われる原住民の一行に出くわして、発砲するわけにもいかず軍刀を抜いたという話題を出したが、本文では詳しく「家代々伝わる備前祐定」と書いてある。


 これも備前長船の産。東郷平八郎対馬沖で戦艦「三笠」の艦橋に立ったとき、指揮刀として腰に佩いた一文字吉房備前福岡の刀で、当時皇太子だった後の大正天皇から賜ったものだ。

 真偽の程は定かでないが、この刀が「三笠」のコンパスを狂わせないかと操船の担当者らが心配したという話を聞いたことがある。磁針の自差には気を付けよう。以下次号です。



(つづく)

























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