おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

「一札」について その4「本文」(第1302回)

 小寺文書の「一札」については、今回が概要紹介の最終回となる。今後はもう一つの「認」のご案内をするが、その内容が「一札」と関係する箇所があるときは、その都度、「一式」にも言及しながら両者の関係を考える。ではまず、三たび「一札」の全文写真を載せる。



 今日は本文。ざっというと前半と後半の二つの文からなる。前半は贈り物の品書きと感謝状のようなもので、後半は遺書と言ったら気が早いかもしれないが、二度と会えないかもしれないという意味においては、それに近い。現代風に言えば生前贈与の通知みたいなものか。どれほどの値打ちがあるのか知らないけれど。

 前半はまず品物のリスト。2点あって最初が「一 系図認壱巻」、すなわち次回以降のテーマである「認」は系図であり、巻物一本であることが分かる。タイトルの「■申一札」の■は、これから遡って察するに「授け申し」の「授」かもしれない。授け物のもう一つが「一 大小名刀一腰」。腰というのは腰に帯びるものを数える単位だと辞書にもある。でも大小だから二本ですね。


 そう言われてみれば、どこかで刀を見たような覚えがあるなというのが地元の人々の感想である。400年以上経っているので仕方がないのだろうが、それにしても大雑把な話である。「名刀」なら相当の値打ちがるかもしれないし、いずれまた話題にするが黒田氏は刀の産地と関係があるかもしれないのだ。

 続いて、これらを贈る理由が述べられている。「汝我等父兄に従い屡々戦い戦功有り依て右之通り相授申▲」。最後の▲はこれまで勝手に「そうろう」と読んできたのだが、いま改めてみると「候」には見えないし、「也」とも思えないが取りあえず語尾の飾りとしておこう。


 文中の「我等父兄」については、「我」は父の小寺職隆であることは殆ど疑いが無く、「兄」は他に候補もいないので黒田官兵衛だと受け止めている。官兵衛が長男でることはまず動かないと思うので、三郎重孝はその弟であり、父から見れば三男坊だろうか。

 どうやら官兵衛は単なる軍師(作戦の立案担当などの頭脳労働者)ではなくて、若いころは特に実際かなりの白兵戦に加わっている様子である。しばしば戦ったのだ。三郎も活躍したのだろう。このあとに出てくる天正八年という「一札」の発行日は、黒田官兵衛が満34歳になる年である。三郎重孝は三十歳前後だろうか。


 この「一式」の紙の真ん中には、縦の折り目があるのが写真でも分かる。どこかの時点で誰かが巻物を二つ折りにしたらしい。現存する末裔の様子を見るにつけても、どこかで遺伝をしくじったのではないかと思うほどに粗雑である。もう戦国の世も遠いし、長い田舎暮らしで真剣味も薄らいだか。

 折れ目の反対側には、「何処之地に移住すれども疎かにすべからず大切に守るべし」と先祖も嫌な予感がしたとみえて、わざわざ余計なお世話と言えないこともない言い付けを書き残したのだが効果が薄かった。でも本当に貴重品が残ったなら大したものだ。次の文は決まり文句的なものかもしれないが後半が読めない。「右相授申」までは読めるし意味も分かるが、残りの四文字ほどが分からない。


 ところどころ未読のままだが、まず全体の文意はつかんでいるつもりだ。これは父が遠くに移り住んだ息子の一人に対して、系図と大小を贈るに際して書いた添え状であろう。これだけで今日の説明を終えるのは、やや不親切だろうか。もう一つの「認」を最後まで読めば、なぜこれが書かれたのか、また、なぜ贈り物が届けられたのか推測がつくのだが「認」は長い。

 そこで、先々に出てくる情報をざっと前もってお示しすると、三郎は理由不明であるが播磨の親許を離れ、美濃の粕川に移住して土着したのだ。それは親の命令に拠るものであった。怪我でもしたのか、兄弟の折り合いが悪かったのか知らないが、ともあれ武士を廃業して百姓になった。


 百姓は絞るだけ絞れという強権政治を敷いた徳川の時代において、農民は「士農工商」で形式的には二番目だが、実際は一番ひどい目に遭っていたというのが私の青少年時代に歴史の授業で教わった「史実」であった。しかし、孔子さま時代の用語であるらしい士農工商も、実際の徳川時代カーストのような固定的な身分制度ではなかったことは民話や落語でおなじみである。

 そして歴史の本で読んだ覚えがあるが、戦国時代までの武士というのは、土地に属しているという意味において「工商」(これもインチキに近く、江戸ではまとめて「町人」と呼んだ)からは遠く、農民に一番近かった。司馬遼太郎によれば戦功を立て戦が終われば、武士の出世とは土地をもらって百姓になることだったという。


 つまり江戸時代の武家の公務員暮らしとは根本的に違う。いざ鎌倉に近い。でも官兵衛と長政が戻って来たとはいえ、小寺・黒田家はまだまだこれからも織田軍団の中国平定に加わり長い戦争が待っているのだが、なぜか口減らしみたいな感じで三郎重孝を美濃に移した。なぜこの時期に? そしてなぜ美濃に? 

 前もって言っておくと「認」を読んでも、その事情は明記されていないのだ。だから、その先、延々と私の推測の文章が続くことになる。歴史と地理の周辺情報を総動員して壮大な思い込みの世界を築き上げる予定である。つまり先日、小馬鹿にした邪馬台国論争と大差ないのです。でも、あの学者さんたちは税金で...。




(この稿おわり)







うちのバルコニーからは隅田川の花火が見えます。
(2014年7月26日撮影)





朝顔フウセンカズラ
(2014年8月2日撮影)

 






































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