今回は「吾先祖は宇多源氏より出で」という「認」の最初の一節から勉強を始める。うちのご先祖は宇多源氏から出たのだという。遠回りして地理のお話から。奈良に大和三山あり、私の好きな山々で小学生のころから知っていたし、中学校の修学旅行で初めて見た。特に耳成山が好きで、大人になってからもわざわざ近くまで見に行った。
私は大学時代の4年間を京都市内で過ごしている。京都にも町中に小さな山がある。例えば今の行政区分でいうと、西の右京区に双ヶ岡、北の上京区に船岡山、東の左京区に吉田山がある。このうち、船岡山は何か月か後で話題に出すことになる。官兵衛の黒田氏にとって重要な古戦場と言われているのだ。
今も同じ建物が残っているかどうか知らないが、私の学生時代に双ヶ岡には立命館大学の学生寮があった。同級生が立命大に進学したので、何人かで泊りがけで遊びに行き、空いている部屋に雑魚寝させてもらったことがある。双ヶ岡とはその名のとおりで、ツイン・ピークスである。この点、二〇三高地と似ている。
大学生のときは途中で一度、下宿を変えたが、最初の下宿屋が吉田山のすぐそばにあった。登って山頂の吉田神社にお参りした記憶もある。高校時代、吉田兼好の「徒然草」が好きで全部読んだ。てっきり兼好法師はこの神社のそばに住んでいたと思っていたのだが、そうではないことを卒業後だいぶ経って知った。
兼好さんは引っ越し好きだったようで、一時期、上記の双ヶ岡の近くにある御室に住んでいたこともあると京都市の観光サイトに書いてある(なぜか雙ヶ岡となっているが)。どうりで御室の仁和寺にある法師の噂話などに詳しかったわけだ。御室とは辞書によると一般名詞としては貴人の住まいという意味である。
それがここの地名になったのは、宇多天皇が出家して仁和寺に住んだからであるらしい。神道の神主の親玉であるはずの天皇が仏教の僧になるとは、一神教の信者には信じがたいというか耐えがたいことかもしれないが、日本ではなるべく多く信じる相手を持っていた方が「当たり」の確率が高いというのが今日に至るまで尊卑を問わず宗教の存在意義の一つである。
宇多天皇の陵も、宮内庁のサイトによると仁和寺のちょっと北にある。近くには石庭で名高い竜安寺もあります。私が社会人になったばかりのころ六畳一間の和室を与えられて独身寮暮らしをしていたのだが、布団や衣類を押し入れに仕舞うと家具はグラス・テーブルとアコースティック・ギターしかなくて、この部屋は同僚に枯山水と名付けられた。上手いなあと思った。
今やお寺もこぞってウェブ・サイトをお持ちだから調べるのも簡単だ。仁和寺のサイトはその創建の歴史をこう語っている。「仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。」
親子二代かけて仁和年間に完成したので仁和寺なのだ。真言宗である。続いて宇多天皇情報もある。「宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となってから、皇室出身者が仁和寺の代々門跡(住職)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。」。門跡とは、やんごとなきお方が住職を務めるお寺。仁和寺はその第一号だったらしい。
これだけを読むと信心深い穏やかな天皇陛下であったかと思いきや、広辞苑(第六版)によると「菅原道真を登用、藤原氏をおさえて政治を刷新」とあるから、末法思想で沈んでいたようなお方ではなかったらしい。だが、結局、道真さんは間もなく道長時代に全盛期を迎えんとしている藤原氏の勢いに押されて左遷された。
転勤先は大宰府である。はるか後年、引退した晩年の黒田官兵衛はこの大宰府のすぐそばに住み、近所の子供たちと遊んでいたという。学生時代に友人とこの大宰府にお参りし、近くの宿に泊まった。夜半、雨音がうるさくて寝付けないほどの豪雨がきた。次の日に長崎で眼鏡橋を見物する予定だったが、この雨で壊れ電車も止まった。死者が200名を超える大惨事だった。1982年の夏。
さて、宇多天皇は政治好きなばかりではなく、日没後もお忙しかったようで、尊卑分脈によると皇子11名、皇女11名と公式記録に残っているだけで、計22人の子だくさんである。このうち、御長男が醍醐天皇になられ、あとの10人のプリンスは親王として生きた。宇多源氏は、9番目の敦實親王の子孫である。
敦實親王は尊卑分脈の情報によると、父親同様、出家して仁和寺宮と号したという。また、黒田家譜によれば、源氏の姓を賜ると書いてあるが、尊卑分脈ではその息子の源信の時代から源氏であり、一代づれている。「認」は孫に跳んでいるので親王の名は無い。ともあれ、平安時代中期のこのころまでが貴族だろう。このあと段々と武士らしくなる。
(この稿おわり)
家庭内手工業による梅干しづくり
(2014年8月2日撮影)
東風吹かば匂ひをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ 菅原道真
今回は「吾先祖は宇多源氏より出で」という「認」の最初の一節から勉強を始める。うちのご先祖は宇多源氏から出たのだという。遠回りして地理のお話から。奈良に大和三山あり、私の好きな山々で小学生のころから知っていたし、中学校の修学旅行で初めて見た。特に耳成山が好きで、大人になってからもわざわざ近くまで見に行った。
私は大学時代の4年間を京都市内で過ごしている。京都にも町中に小さな山がある。例えば今の行政区分でいうと、西の右京区に双ヶ岡、北の上京区に船岡山、東の左京区に吉田山がある。このうち、船岡山は何か月か後で話題に出すことになる。官兵衛の黒田氏にとって重要な古戦場と言われているのだ。
今も同じ建物が残っているかどうか知らないが、私の学生時代に双ヶ岡には立命館大学の学生寮があった。同級生が立命大に進学したので、何人かで泊りがけで遊びに行き、空いている部屋に雑魚寝させてもらったことがある。双ヶ岡とはその名のとおりで、ツイン・ピークスである。この点、二〇三高地と似ている。
大学生のときは途中で一度、下宿を変えたが、最初の下宿屋が吉田山のすぐそばにあった。登って山頂の吉田神社にお参りした記憶もある。高校時代、吉田兼好の「徒然草」が好きで全部読んだ。てっきり兼好法師はこの神社のそばに住んでいたと思っていたのだが、そうではないことを卒業後だいぶ経って知った。
兼好さんは引っ越し好きだったようで、一時期、上記の双ヶ岡の近くにある御室に住んでいたこともあると京都市の観光サイトに書いてある(なぜか雙ヶ岡となっているが)。どうりで御室の仁和寺にある法師の噂話などに詳しかったわけだ。御室とは辞書によると一般名詞としては貴人の住まいという意味である。
それがここの地名になったのは、宇多天皇が出家して仁和寺に住んだからであるらしい。神道の神主の親玉であるはずの天皇が仏教の僧になるとは、一神教の信者には信じがたいというか耐えがたいことかもしれないが、日本ではなるべく多く信じる相手を持っていた方が「当たり」の確率が高いというのが今日に至るまで尊卑を問わず宗教の存在意義の一つである。
宇多天皇の陵も、宮内庁のサイトによると仁和寺のちょっと北にある。近くには石庭で名高い竜安寺もあります。私が社会人になったばかりのころ六畳一間の和室を与えられて独身寮暮らしをしていたのだが、布団や衣類を押し入れに仕舞うと家具はグラス・テーブルとアコースティック・ギターしかなくて、この部屋は同僚に枯山水と名付けられた。上手いなあと思った。
今やお寺もこぞってウェブ・サイトをお持ちだから調べるのも簡単だ。仁和寺のサイトはその創建の歴史をこう語っている。「仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。」
親子二代かけて仁和年間に完成したので仁和寺なのだ。真言宗である。続いて宇多天皇情報もある。「宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となってから、皇室出身者が仁和寺の代々門跡(住職)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。」。門跡とは、やんごとなきお方が住職を務めるお寺。仁和寺はその第一号だったらしい。
これだけを読むと信心深い穏やかな天皇陛下であったかと思いきや、広辞苑(第六版)によると「菅原道真を登用、藤原氏をおさえて政治を刷新」とあるから、末法思想で沈んでいたようなお方ではなかったらしい。だが、結局、道真さんは間もなく道長時代に全盛期を迎えんとしている藤原氏の勢いに押されて左遷された。
転勤先は大宰府である。はるか後年、引退した晩年の黒田官兵衛はこの大宰府のすぐそばに住み、近所の子供たちと遊んでいたという。学生時代に友人とこの大宰府にお参りし、近くの宿に泊まった。夜半、雨音がうるさくて寝付けないほどの豪雨がきた。次の日に長崎で眼鏡橋を見物する予定だったが、この雨で壊れ電車も止まった。死者が200名を超える大惨事だった。1982年の夏。
さて、宇多天皇は政治好きなばかりではなく、日没後もお忙しかったようで、尊卑分脈によると皇子11名、皇女11名と公式記録に残っているだけで、計22人の子だくさんである。このうち、御長男が醍醐天皇になられ、あとの10人のプリンスは親王として生きた。宇多源氏は、9番目の敦實親王の子孫である。
敦實親王は尊卑分脈の情報によると、父親同様、出家して仁和寺宮と号したという。また、黒田家譜によれば、源氏の姓を賜ると書いてあるが、尊卑分脈ではその息子の源信の時代から源氏であり、一代づれている。「認」は孫に跳んでいるので親王の名は無い。ともあれ、平安時代中期のこのころまでが貴族だろう。このあと段々と武士らしくなる。
(この稿おわり)
家庭内手工業による梅干しづくり
(2014年8月2日撮影)
東風吹かば匂ひをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ 菅原道真
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