おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

近鉄と広島  (第1114回)

 近鉄バファロウズのファンだった。田舎の野球小僧のころは、ご多聞に漏れず巨人ファンだったのだが、思春期にグレて近鉄に鞍替えした。いま覚えている理由らしい理由といえば、万年最下位クラスだったチームが、西本監督を迎えて、強くなり始めたころだったため応援したくなった。

 大学生のとき、二年連続、近鉄日本シリーズに出た。そして二年連続、球史に残る強豪チームだった広島カープに破れた。近鉄は、私が物心ついたときに存在していた12球団のうち、唯一、日本一の経験がないまま、さらに現時点では唯一、この世から消滅したプロ野球団でもある。

 当時の選手会長だった古田は泣いてくれたが、手遅れだった。せめてもの幸いは、その空洞を楽天が埋めてくれて、日本ハムとともに、プロ野球未踏の地ともいうべき北国に、フランチャイズの礎を築き活躍してくれていることだ。


 近鉄球団を失ったことは、私の人生の娯楽部門に多大なる影響を及ぼし、その後、プロ野球に対する関心を急速に失った。今に至るまで。この喪失感は、近鉄ファンでなければ分からないのではなかろうか。

 報道で聞いただけだが、近鉄は入団早々から、とんでもない記録を残し続けた野茂が故障したとき、大切にしなかったらしい。野茂は大リーグに去った。彼は優れたパイオニアになり、いっとき、ノーヒット・ノーランを二回達成した現役メジャー・リーガーは野茂一人だけという時期まであった。彼が帰ってきてほしかった球団は先に消えた。

 このあと、野茂に続いて、多くの日本の選手が、名声と大金を求めてメジャーに行くのが当然のことになり、球団もファンも報道も、なぜかあっさり、それを受け入れている。日本のプロ野球は、米球界の二軍になった。文句を言ったのは私の知る限り野村だけで、「猫も杓子も大リーグか」とぼやいている。


 小説から映画にもなった「博士の愛した数式」の博士は、記憶が遠い昔で停止しており、江夏は阪神の投手で、調和数の背番号28を背負っている。かつてプロ野球の球団は、オーナーに鉄道会社が多かったが、近鉄ほか大半が撤退した。国鉄は、そのオーナーも残っていない。

 そんな中で阪神は頑張っている。もっとも、これは馬鹿にして言うのではないが、阪神に限ってはタイガースと高校野球が、鉄道のオーナーかもしれない。大いに結構。甲子園は日本の野球の象徴だ。


 近鉄は広島相手に、よく敢闘した。九回裏になって追い詰めた。大学をサボって白黒テレビを観ていた私は、今でもあの時、サード・ベースを守っていた衣笠がゆっくりマウンドに歩み寄り、江夏に一言、声をかけて去っていった場面を覚えている。

 なんと言ったのか今も知らない。だた、あれで流れが変わったと、後に江夏が語ったのを聞いて、あのまま阪神で調和していればよかったのにと思った。近鉄の夢はそのまま叶うことなく消えた。


 それから二三年経ち、1982年の夏に四国を一人で旅行し、そのあと続けて部活の友人と、九州を旅行することになった。就職活動は、そのあと上手くいくはずであったが、まあいい。相棒とは広島駅で落ち合うことにした。

 連絡船で松山から呉に渡り、早く着いたので広島市内を半日ほど歩いた。原爆ドームを見たあと、通りがかった大きな建物の上から、突然、大歓声が降り注いでいたのには驚いた。

 それは広島市民球場だった。建て替える前のもの。デーゲームをやっていたらしい。核兵器で壊滅的被害を受けた町で、広島の市民は球場外に募金箱を置き、このチームの経営を支援し続けたという話を聞いたことがある。近鉄はこの相手と対決したのだ。良い思い出ではないか。




(おわり)





1945年8月6日投下、ウラニウム爆弾の搭載地点
(2017年1月15日、テニアン島にて撮影)











 泥にまみれ マウンド踏んで
 勝利の凱歌を 挙げるまで
      

       
































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