おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

後楽園 (20世紀少年 第702回)

 第21集の第4話は、珍しくケンヂよりも蝶々君のほうが迫力がある。ケンヂが見当はずれなことばかり言うのでご立腹気味である。「東京行って、どうするかだ」とケンヂに言われて、さすがに刑事にしては温厚な蝶々君もつい怒鳴った。ケンヂはテロリスト扱いされて、この世から抹消されかかった。だから”ともだち”を倒しに行くんじゃないんですか?という彼の言い分ももっともである。

 だからこそ彼もケンヂについてきたのだ。”ともだち”の配下になっているらしいヤマちゃんおじさんと決着をつけるために(あるいは、カンナに会いたいという事情もあるかもしれないが)。ところがケンヂときた日には、「後楽園なんて、やってんのかな」と来たもんだ。田舎道ばかり歩いてきたから、「遊園地でパーッと遊ぶってのはどうだ」と提案して相手を呆れさせている。


 後楽園とくれば、岡山のみなさんにとっては地元の名勝、後楽園であろうが、60年代生まれの田舎の少年にとっては、ONがいたころの後楽園球場である。名のいわれは、今もある小石川の後楽園、元は水戸藩上屋敷の庭園です。ちなみに、上屋敷というのは参勤交代で江戸に来た地方の殿様が起居する最上位のお屋敷で、いわば大使館兼大使公邸のようなものだ。

 この庭は都心では数少ない緑豊かな公園であり、私の好きな散歩コースの一つ。幕末の水戸藩の論客、藤田東湖安政の大地震の際、ここで母を救おうとして圧死したと伝えられる。この旧跡に隣接して建てられたのが娯楽施設の後楽園。野球場は東京ドームに名が変わったが、遊園地などは今も後楽園の名を冠する。ボクシングも盛んで、矢吹丈もここで戦った。


 子供のころテレビで一番良く観たスポーツ施設は間違いなく後楽園球場だ。多くの田舎小僧と同様、私も巨人ファンで特に王貞治が好きであった。なんせ唯の小僧っ子なので、ホームランが何より好きだったのだ。王が好機にタイムリー・ツーベースに倒れたりするとガッカリしたものです。そして長嶋茂雄の引退の夜。彼はフェンスに沿って、ゆっくり歩いて一周した。テレビの放送時間が終わってしまったので、途中からラジオ中継でその様子を聴いていた。

 本物の後楽園球場を見たのは、たったの一度で、しかも偶然であった。その日、仕事で渡米直前だった私は、理由を忘れたが水道橋駅のすぐ近くにあるビジネス・ホテルに泊まった。どうも外がうるさい。窓を開けると野球場でコンサートをやっているのであった。曲は馴染みのあるものばかりで、歌って踊っていたのはマイケル・ジャクソンだった。無料で観たことになる。


 その後まもなく建て替えられて東京ドームになった。以前書いたが私はそこで松井の本塁打も見たし、イチローバックホームやタイムリー・ツーベースも見た。しかし何より印象的なのはマイク・タイソンの敗戦。その日の彼はどこか落ち着きがなく、テレビ観戦していた私は今日はちょっとまずいんじゃないかと思ったら案の上であった。なお、私は具志堅がついに負けたときも同じような予感を抱いた。分野限定の予言者かもしれない。

 なお、この試合でタイソンは相手のダグラスから早々にダウンを奪っている。レフリーが9カウントまで数えた段階で、ダグラスはジョーのごとく立って逆転勝ちしたのだが、このときの9カウントが計時すると13秒もかかっていたため物議をかもした。これに対しファイティング原田はスポーツ紙で論陣を張り、プロボクシングは興行であって、客を楽しませるため時にはそういうこともあると堂々と語った。原田に刃向うボクシング関係者などおるまい。


 この閉塞感の中、遊園地など持ち出されて、蝶々君も「あきれた」とソッポを向いてしまい、そんなに遊びたければ万博にでも行きゃあいいでしょと言い捨てている。今度はケンヂが「万博って?」と首をかしげる番であった。蝶々君は無愛想に「知らないんですか。東京でやってるんですよ、万国博覧会」と教えてあげている。「だって、あれは何年前の話だ?」とケンヂ。一度だけ東京に戻ったときに耳にしたのだろうか。それ以降の世情には疎いらしい。

 蝶々君の追加説明によると、2015年の万博で”ともだち”が法王の命を救ったため会場は聖なる地になり、”ともだち”は永遠に開催すると宣言したらしい。ケンヂの言い分が振るっている。「永遠にやる万博なんてあるか。」であった。そのとおりであろう。何度も書いたが祭りや旅は終わりがあるからこそ尊い。次が楽しみだからこそ貴い。永遠万博なんて、いつまでも子供でいたい奴の言い出しそうなことだ。



(この稿おわり)




東京ドームの外と内 (2010年10月8日撮影)
































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