おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ケネディの大統領就任演説  (第1315回)

 本日は趣向を変えて、昔の人が言ったことを聴いてみる。幸い、ネットにはその画像も英文も載っている。1961年1月。私はその数か月前に生まれた。田舎者ぞろいの我が実家が長男の誕生を他愛なくよろこんでいたころ、前年の大統領選に勝利したジョン・F・ケネディワシントンD.C.で、日本でもお馴染みの就任演説を行っている。

 アメリカの大統領は行政府の長であり、その執務室はホワイト・ハウスと呼ばれる。まだテロの恐怖がそれほどのものではなかった時代、私は小銭を払って現地ツアーに参加し、あのオーバル・オフィスなどを見せてもらったことがある。


 そのときケネディが聴衆を集めたのは、このホワイト・ハウスではなく、歩いていける距離だが国会議事堂の前だった。私がこれを見物に行ったときは3連休の閉会日で、警備のおじさんが「のぞくだけならいい」と言って、本会議場を見せてくれたものである。

 就任演説には儀式がある。ケネディカトリック系のクリスチャンだが、誓ったのは信仰だけではない。彼は以下について、最善を尽くすと手を挙げて宣誓している。「...to preserve, protect, and defend the Constitution of the United States.」。これは決まり文句のようなもので、もう7年前のことになるが、オバマ大統領もつっかえつっかえのご愛敬で同じ宣言をした。


 彼らは、繰り返すが行政府の長である。したがって、合衆国憲法を維持し、擁護し、守り抜かなければならない。それを改めることができるのは、国民とその代表者たる立法府だけだからだ。同様に、日本の行政府の長も、最大与党の総裁であろうと、憲法の改正をむやみに主導してはならない。三権分立を尊重するのであれば。

 もっとも、われらの現職の場合、自分は「立法府の長」であると複数回、国会の場で明言し、さすがに後で「言い間違い」という分かりやすい弁明をしている。せっかく無意識の中に封じ込めておいたのに、つい口を滑らせてしまうことを「フロイト的失言」(Freudian slip)という。フロイティアンも大喜びの実例であろうか。


 皮肉はこの程度にしておこう。おそらく軍楽隊と思われる冒頭のファンファーレを、後に彼は話の中に、上手く織り込んでいる。後列にジャクリーンの笑顔が見える。副大統領のニクソンと握手を交わした後で、彼は演台に立った。集まった人たちに問いかけるにあたり、彼は「fellow citizens」と呼んでいる。これを頭の片隅に入れて、約15分間の宣誓文を読んでみる。

 有名な箇所は、終盤に出てくる「And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country.」だ。以下、引用先はケネディ博物館のサイトです。http://www.jfklibrary.org/Asset-Viewer/BqXIEM9F4024ntFl7SVAjA.aspx


 これを先年、自民党の国会議員が、「国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」とツイートして、物議をかもした。意図的な歪曲か、脳味噌の不調による誤訳か知らないが、どうにも変だと思うので自説を掲げる。年数も経ち、彼女も考え直しているかもしれないので、以下、個人攻撃はしない。

 最初に文脈的なことで補足すると、この一文は対句になっており、このあと、「My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.」と続く。つまり、彼が呼びかけているのは、アメリカ国民だけではない。自由主義国家の市民、レ・ミゼラブルによく出てくるフランス語のシトワイヤンだ。


 シチズンも多義の言葉で、「US citizenship」といえばアメリカ国籍(正確には市民権と訳す)のことなのだが、ここでは主権在民の「民」のことだと考えて間違いあるまい。この推測は、この文中に出てくる「country」で補強できそうだ。私の場合、中学の英語の授業で、真っ先に教わった「国」を意味する英単語が、この「country」だった。

 ところが、これは「田舎」も意味するのだというから思春期は深く悩んだ。実際、アメリカにはカントリー・ミュージックという民謡そのものの音楽ジャンルがあるし、ちょうどそのころジョン・デンヴァーの「カントリー・ロード」が流行っていたので、先生の間違いではない。土の匂いがする。イザナギイザナミの神々が最初に取り掛かった作業の賜物。


 こうして歳をとってくると、日本語の「くに」を表す言葉は、民族国家的な「nation」でもなく(国連はこれの集まり)、統治機構たる国家の印象が強い「state」でもなく(元首は、これのトップ)、やはりこの「カントリー」が一番しっくり来る。また、集まった支持者も野次馬も、世界中の見知らぬ同志も、共同体の仲間たる「フェロー・シチズン」が似合う。

 さらに、大統領は「ask what you can do」と表現している。リーダーシップに欠ける指導者などは、いかにも「国を維持するために何ができるか考えよ」と訳しそうだが、英語の命令形は命令ばかりではない。むしろ、立場が上の者が下の者に断れない指図をするとき、「please」が付く。下の者が「やらせてください」というときは命令形でよい。レット・ミー・トライ。仲間同士なら勿論だ。


 ケネディは国内外仲間に対して、命令ではなく、一緒に考えようと言っているのだ。一人で悩めとか、言うことをきけとかいう論調ではあるまい。以上は私の解釈だから、異論があっても構わない。ただ、ケネディにはスピーチ・ライターがいて用意周到だったし、言葉を大切にする政治家だったことは間違いがない。

 例えば、これもよく引用される「国家は市民の従僕であって主人ではない。」という、改正草案に対する警句のような一文は、翌年の議会演説に出てくるもので、英語では「It is our belief that the state is the servant of the citizen and not his master.」。


 改めて、国家権力は「country」ではなく、「state」である。フォース・マスターの所在は明らかであろう。ところで、上記の就任演説で、私のお気に入りの箇所は、もう少し前にも出てくる。段落ごと抜き出そう。

Now the trumpet summons us again -- not as a call to bear arms, though arms we need -- not as a call to battle, though embattled we are -- but a call to bear the burden of a long twilight struggle, year in and year out, "rejoicing in hope, patient in tribulation" -- a struggle against the common enemies of man: tyranny, poverty, disease, and war itself.

 いま聴こえ来たる喇叭の合図は、武装の命令ではない。現に我々は武装しているが。戦闘の指令でもない。現に我々は戦場に立っているが。これを受け、我らが共に担うのは、長い年月に及ぶ夜明け前の戦い、「望みて喜び、艱難にたへ」、人類共通の敵すなわち暴政、貧困、病苦、そして戦争そのものとの戦いである。


 なお、文中カッコ書きの「望みて喜び、艱難にたへ」は、新約聖書「ロマ人への手紙」、第12章第12節からの引用で、ユダヤ民族宗教に挑戦したイエス宗教改革を、世界のキリスト教に昇華させた伝道者、パウロが書いた書簡の一節。
 
 この就任演説の最後、ケネディ大統領は話を締めくくるにあたり神棚から降りてきて、「この地の上における神の業とは、すなわち我らの行いそのものに違いない」と結んでいる。ベトナム戦争の最中に、ケネディは平和や自由を訴えねばならなかった。時代的にはその前夜に、日本でアメリカ人たちが作ったのが日本国憲法の前文や第9条である。参考になるかもしれないと思い、読んでみました。





(おわり)





憲法記念日の新緑  (2016年5月3日撮影)