おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

PKO「UNTAC」とその後のカンボジア  (第1283回)

 国連平和維持活動(United Nations Peacekeeping Operations:国連PKO)には,はっきりとした定義は存在していません。なぜなら,国連PKOは,国連憲章で想定されている「国際の平和及び安全の維持又は回復」のための措置(集団安全保障制度)が,戦後の東西対立の中で当初考えられていたとおりに機能しなかったことを受けて,国連が世界各地の紛争を解決するための手段として,国連憲章に明文の規定はないものの,試行錯誤を経ながら活動を積み重ねてきた取組だからです。

 これは外務省のサイトから転載したものだ。PKOは、国連憲章に定められた活動ではない。拠出金も、おそらくだが日本の国庫でいう特別会計に似て、一般の予算とは別枠らしい。その名を「国連PKO分担金」という。PKOは日常業務的なものではなく、個別単体のプロジェクトである。だから参加は任意のはずだ。以上は、次のウェブ・サイトに拠る。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol104/index.html


 1991年に自衛隊が海外に派遣されたがPKOではなく、海上自衛隊湾岸戦争のあとでペルシャ湾の掃海を行った。これまでPKO法と勝手に略して参りましたが、通称は国際平和協力法、正式名称を「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」という名の法令が、そのときは未だできていなかったので自衛隊法に拠る海自の派遣。

 国際平和協力法が成立したのは、1992年6月のことだ、当時の社会党が国会で牛のように歩いたが、骨折り損だった。さっそくアンゴラPKOに選挙監視要員が送られ、続いて同年2月に既に始まっていたカンボジアPKO「UNTAC」(国際連合カンボジア暫定統治機構)に、初めて自衛隊(今回は陸自)が派遣された。第一陣は1992年9月に出発。


 オペレーション名に「暫定統治」が含まれているのは、長年の革命やクーデタや内戦で、混乱状態にあったカンボジアにおいて、新しい憲法をつくるのが一つの重要な目的だったからだ。これは成果を挙げている。具体的には、憲法制定会議の選挙実施が1993年5月(この選挙については次回に言及する)、憲法の成立・公布および「UNTAC」の活動終了が同9月。自衛隊に犠牲者は出なかったが、国連ボランティアの中田厚仁氏が現地採用の運転手さんとともに、また、文民警察の郄田晴行警部補が銃撃され亡くなった。

 この痛ましい事件をニュースで観ていたころは、まだ東京で仕事と子育てにいそしんでいたのだが、後に縁あってカンボジアの首都プノンペンに3年余り駐在することになった。赴任が1996年10月、本帰国が2000年1月。仮に「UNTAC」が失敗したり、その後に内戦状態に戻っていたりしたら赴任どころではないから、私の人生もずいぶん変わっていたはずだ。


 この赴任そのものが初めてのカンボジア渡航だったから、着任前のことは文書で読んだか、人から聞いたことしか知らなかった。ネットはまだない。だから、「UNTAC」時代のことは全て「又聞き」である。

 前回の話題にしたPKOの派遣5原則には、対立する諸派の停戦合意が必要とある。しかし、カンボジアの場合、一旦、文書上で合意したのかもしれないが、実際には主要勢力の四派のうち、クメール・ルージュ(日本では領袖の名をとって、ポル・ポト派と呼ぶ)は、非協力的どころか軍事行動を続けた。殉職者は、その過程で出た。下手人は不明だが、自明であろう。

 治安維持の大部隊を出す以上、当然ながら治安は不安定であり、ときには悪化するというリスクは常に付きまとう。カンボジアでは、その嫌な予感が的中したが、政府はそれを過小評価して撤退させなかった。過小評価というより、軍事関係の評価能力が日本のシビリアンにどれだけあるのか疑問に思う。厳し過ぎると言われるかもしれないが、政治的な意向が優先されたのでは(本来、近代の戦争はそういう側面が必ずあるのだろうが)、現場はたまったものではない。


 クメール・ルージュ(KR)は、私が着任した1986年に、筆頭幹部の一人で、KRの財源とも言われているルビーの産地パイリンを軍事拠点としていたイエン・サリが、その部隊ごと中央政府に投降し、弱体化が著しくなった。私はこのイエン・サリと、プノンペンのホテルの廊下で擦れ違ったことがある。

 仕事の用事を終えてホテルの出入り口に向かう途中で、軍服姿の三十人ぐらいの男の集団が反対側から来た。狭い通路だったので避けるのが精いっぱいで、壁に背をつけたまま将軍らしき男が目の前を通り過ぎるのを見ていた。そのあと外に出たらドライバーが心配顔で待っており、「あれは何だろう」と訊いたら「イエン・サリ」と言う。何も知らずにボンヤリしていたので、無事だったのかもしれない。


 その後もしばらくKRはタイ国境方面で、それなりの軍事力を擁したまま勢力を保ち続けていると報じられていたが、1988年にポル・ポトが死んで求心力を失い、破れた風船のように萎んで潰えた。本物かどうか知らないが、ポル・ポトの死体が枯れ木を組んだ臨時の火葬場のようなところで焼かれている写真が現地の新聞に載った。

 このあと、カンボジアの治安は一気に改善に向かい、アンコール遺跡にも普通に行けるようになったし、ASEANの加盟も果たした。私が着任したころは首都にエレベータもエスカレータも映画館もないような有り様だったが、今では賑やかになったと聞く。亡くなられた方々におかれては、平和構築の困難で重要な段階における、せめてもの貴重な貢献をなされた。


 私が駐在していた時期の前半は、まだ治安が流動的で、比較的安全と言われていた外国人用のアパートに住んでいたが、日常的に銃声を聞いていた。そのアパートの門番が、バイクを盗んで走り出した泥棒の頭を拳銃一発で撃ち抜いて始末し、住民は怖がるやら驚くわで大騒ぎになった。そして、当時の私の同僚や知人には、もっと怖い思いをした人が大勢いる。

 1997年のクーデタ(日本政府の表現では事変)の際は、安全担当だった私の手元に、五十枚ほどの要人や軍人の殺害写真が集まり、日本にコピーを届けてみたが返事がなかった。嫌な思い出が少なくない。後半は、ようやく地方に事業展開できるとなったが、地方の情報も身を守る手立てもない。無い知恵絞った。


 当時、カンボジアで外国機関などの取りまとめ役をしていたのは、「UNTAC」以降の付き合いなのか、国連のUNDP(国連開発計画)だった。当時そこに、アメリカの軍人と言われていた武官がいて、名刺交換をしたことがあったので、ずうずうしくも電話して、安全対策の相談をしたいと申し入れた。

 武官は電話口で「そんな話が電話でできるか」と怒鳴り、でも親切で、話を聞きたければいつでも来い、空いていたら会うと言ってくれたので、その足で会いに行った。一対一で数十分、まずは現状の説明を聴き(先方にお差支えのない範囲で、だろうが)、最後に「俺に連絡を入れてくれれば、国連の車と無線通信網は、いつでも使っていい」と述べて、彼は話を締めくくった。


 もちろん、これは私の能力や人柄による功績ではなく、「UNTAC」とそれ以降の日本の実績を評価してくれていたのだ。この切れ味の鋭さが、軍人というものです。きっと私らごときに、無断でウロウロされては困るのだろう。

 最後にお茶を御馳走になりながら、彼が最近、カンボジア政府の治安当局の責任者と会談したときの、こぼれ話を聴いた。その責任者は、「われわれの心の中にも、クメール・ルージュは居る」と語ったらしい。これは単なる「誰にも心の闇はある」というような心理学や宗教の話ではない。

 カンボジアの貧しい一般家庭では、子供が多くて養い切れなくなると、大きめの男の子をクメール・ルージュに送り出した。兵隊であれば軍が面倒みてくれるので、衣食住の金はかからない。ライフルもくれる。それ以降、カンボジアの人とKRの話をするのは、相手がその話題を持ち出さない限り、止めた。


 このように、素人の私の耳に入る程度でも、内乱状態にある国の実情はややこしく、その背後には往々にして国連の「安全保障をしない理事会」の常任理事国の利害が絡んでいる。カンボジアでも、アメリカ、中国、ベトナムソ連、フランスが、前記の四派のそれぞれと緊密な時代があったと説明されている。

 PKOでは、そういう複雑怪奇な地域に、本来なんの因縁もない日本が自衛隊文民を送り出す。今どきの007やミッション・インポシブルのようなIT合戦の場ではない。未だ20世紀型の白兵戦を覚悟しないといけない。ODAの予算も捻出困難な時代が続くだろうし、あとは人海戦術しかないのか? 関連して、あと一つ、次回にPKOの話題を出して、この頭の痛くなるテーマから離れるつもり。





(おわり)








新宿にて (2016年10月27日撮影)






窓の外 街路樹が 美しい
(2016年12月5日撮影)
















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