おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

久之浜  (第996回)

 早朝に食事を済ませて、小名浜の宿を出る。学生時代、寝台特急に乗って旅したレールの上を、地元の皆さんとともに各駅停車でカタコト揺られ、いわきを経て久之浜に向かう。久ノ浜駅には電子改札がなくて、SUICAに入場記録だけ残し外に出た。小さい写真を貼りますが、クリックすると拡大されるはずです。これは駅舎。 

 今回の訪問先である海岸は、駅から歩いて数分の距離。いわき市の一部になる前は、一つの町で人口は数千人。かつては海水浴場があったと聞く。三陸ではそういう話を何度も聞いた。地図を見て駅からまっすぐの道を海に向かって歩くと、目印にすると良いと聞いてきた小さな祠はすぐに見つかった。

 
 それは目立つ場所にあるからというよりも、周囲に何も無かったからだ。むかしの風景は知らないが、周囲にあったものが、みんな無くなってしまったらしい。周辺ではなぜか、この小さな神社だけが残った。お稲荷さんである。

 あたりの地面が薄茶一色の土だったのは、宅地造成の工事中だったからだ。日曜日なのに、クレーンも出ている土木工事。この三月の会計年度末までに、終わらせないといけないことがあるのだろう。繰り返し思う。もう5年も経つのに。

 ここでも車道は海岸の手前で行き止まり。やむなく稲荷神社のほうに工事中の道を曲がり、そこで交通整理をしている工事関係者のおじさんに、作業中の敷地内にある神社まで行っていいかと尋ねた。彼は手にした無線機で、現場監督とやり取りを始める。ウォーキートーキーから「駄目だ」という声がした。「お参りだそうです」と我らの無線係。神社だけなら、ということでお許しが出た。


 本当にこれだけが、ポツンという感じで残っている。もちそん震災直後は、がれきの山だったのだろうが、残すに足るほどの原型をとどめていたものは、ほかに無かったのだろう。東京でも増上寺浅草寺寛永寺は、高いところにある。このお稲荷さんも、周りと比べれば少しは高くて地盤が高かったから残ったのだろうか。お稲荷さんのご加護、というふうに私は考えないタイプなので、なかなか救われない。

 
 この日、前半はこの神社参りで、後半は予定外だったが、地元の方にお話しを伺う時間を持つことができた。その方からは、お仕事も名字も教えてもらったが、万一、地元で迷惑がかかるといけないので、Aさんとする。

 Aさんから聞いたところでは、いまでは再建された鳥居も津波でふっとび、祠ものけぞるように後ろへ傾いて支えが必要になった。でも、残った。そして、すぐ近くに住んでいたという友人の親族は、まだ帰って来ていない。

 

 神社のお参りだけという約束ではあったが、すぐ目の前が海なので、盛り土した海岸近くまで歩いてみた。殺風景な壁が立ちはだかるよりは、まだ土の山のほうが良いかもしれない。

 それでも、Aさんによれば業者さんが植えてくれた防潮林用の松の苗木が育ったら、もう海は見えないだろうという。それぞれの被災地では、何かを犠牲にしないと同じことが起きてしまうという厳しい選択を迫られている。この上さらに、何かを諦めなければ町の暮らしや、お稲荷さんを守れない。

 Aさんの話に出て来た松の苗木は一目見て分かったのだが、それとは違う挿し枝も並んでいる。葉っぱも無いので、私の知識では樹木の種類が枝だけでは分からない。これもAさんに教わった。地元の小学生が、先日の祭事の際に、雨の中、ドングリの小枝を植えたのだと言う。

 レインコートを着て働く子供たちの写真を見せてもらった。「よりによって雨」とAさんは泣き笑いしていた。また、「あの日」は、みぞれが降る寒い日で、高台の避難場所に逃げ、さらに高くに移り、夜になって暖房もなく、段ボール箱にくるまって寝たのだという。



 東北に行くときは、線香を持っていく。今回は行方不明ということもあって、お線香でいいのかどうか迷ったが、Aさんによれば、この町で65人が亡くなった。他の方を忘れるわけにはいかない。

 献花台もない工事現場の轍に、火をつけた線香を立てて掌を合わせてきた。この日は薄曇りで風も弱く、目の前の海は銀色にたゆたい、穏やかな波がそれほど広くはない海岸に寄せては返す。トンビが上空を舞う。 


 海沿いのテトラポッドは、この写真だと逆光で分かり辛いのだが、古くて黒いものと、新しくてコンクリート色のものが、はっきりと区別できる。古いのは残った。新しいのは、津波に持っていかれたものの後継者だ。

 防潮堤も破壊されて、盛り土の外側に再建されている。少しずつ復旧は進んでいるのだが、果たして宅地造成が終わった後で、みんな戻って来るのかどうか、さすがにそこまで訊けなかった。


 思いのほか神社が駅から近かったので、次の電車まで時間がある。何やら大きくて新しい立派な建物が見えたので、見物することにした。どうやら式典を取り行っていなさる。

 今日は日曜日で、この新築物件の竣工式だった。どなたでも入れますとあったが、さすがに通りすがりの者が、こんにちはという訳にもいくまい。これは公民館と避難所などを兼ねた地域防災センターで、翌月曜日から共用を開始するそうだ。


 まだ時間があるし、少し足が疲れた。荷物を抱えた手も重い。すぐ近くにもっと大きな神社の屋根が見えたので、裏から勝手に入り、ベンチがあったので荷物を下ろして一休みさせてもらった。きれいな梅が咲いている。この神社の入り口あたりで暫く立っていたら、Aさんが声をかけてくれたのだ。

 もっとも、その前に母娘と思われる女性が二人通りかかっている。きちんとした服装をしていたので、今にして思えば、あの公民館の式典に参加するため歩いてきたのだろう。


 

写真は、この二人に会った神社前の造成地から鳥居などを映したもの。二人のうち年上のおばあさんは、誰に話しかけたのか分からないが、人の名を幾つか口にした後で、「津波で5人、死んだ」と大声で叫んだ。これから行く場所や海を見たからか、親しかった5人のことを思い出されたのだろう。

 連れの小母さんはこれには答えず、ちょうど目が合った余所者の私に、「海風、冷めてえべ」と声をかけてくれ、人懐こい笑みを日に焼けた顔に浮かべて去って行った。確かに顔が冷たい。どこへ行っても東北の人たちは気さくだ。


 このあと会ったAさんは、しばらく立ち話をしたあと、東京から来たと告げただけで名前も職業も知らない相手を、ご自宅に招き入れてくださった。一時間余り、お話しを伺ったり、写真を見せていただいたり、来客も二三あってお忙しそうだったが、ずいぶん世話になってしまった。

 なお、こちらの大きい方の神社は、我が家のそばにも同じ名前の社があるが、諏訪神社という。信濃諏訪湖の神様で、ずいぶん遠くまでお越しだが、この近辺に諏訪神社は多いとAさんに聞いた。立派なクロマツがある。


 被災地の複雑な事情もお聴きしたが、ここでは割愛する。私はジャーナリストではない。現地に万一、波風を立ててしまっても責任のとりようがない。

 客観的なことぐらいなら申し上げると、ここは市内でも中心から遠いため、復旧復興も何かと遅いのだという。視察に来た国会議員だかが、南隣りの町で引き返してしまったこともあったらしい。幸い子供たちは全員無事だったそうだが、幼稚園も破壊され、引っ越した。

 翌年たくさん咲いた花々も、除染の工事で全て引き抜かれた。でもまた育てている。消防を説得して、花火大会もやった。しかし、今も獲れた魚は、町の外に売ってはいけないらしい。猟師さんによると、天敵の人間が大人しいため、魚はよく育っているそうだ。そんなに先も長くあるまいと、平気で食べている人もいるらしい。いや、平気かどうか、わからんが。


 震災後は、ボランティアとのお付き合いが始まり、今日まで続いているそうだ。当時は配給物資の台帳だったノートは、次第にボランティアとの交流の記録に変わっていく。最近の日付の記事も多い。

 今はもう殆ど撤去されてしまったそうだが、ボランティアの中に絵心のある人たちがいて、あちこちの壁にスプレーで花の絵を描いてくれたらしい。殺風景だった津波の爪跡が残る街角に、色とりどりの花が咲いた。その貴重な名残があったので無断撮影。お許しを。


 電車の時間が近づき、例のノートに名前と日付、お礼の言葉を簡略に記してお暇することにした。Aさんは元気なお方で、よくお話しになったが、いくらでも思い出すことがあるのだろう、段々と目が赤くなってきた。

 ここに来た事情は簡単にお伝えしたものの、それにしても初対面の相手に、よくここまで有難くもお話しいただいたものだ。今度うちの近所の諏方神社にいくときは、祈願する中身が増えた。

 このあと東京に戻ったときの疲れ具合は、尋常のものではなかったが、あの地で起きたことや、その後5年間の地元のご経験と比べれば話にならない。また来てくださいと、Aさんに見送っていただいた。なに、常磐線一本です。魚も好きです。






(この稿おわり)























 たとえ今日は果てしも無く
 冷たい雨が降っていても
 
   「時代」  中島みゆき
























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