おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

小名浜  (第995回)

 前回の続きで、今日と次回は福島訪問記です。年に一度は被災地に行く計画を立てており、つい先日、5回目の九段に出かけたばかりだった。6回目は経緯があって、6年目に入ったばかりの3月12日(土)と13日(日)の週末を利用し、一泊二日で福島県いわき市まで往復した。

 その経緯とは、ご本人の了解を得ていないので詳しく書けないのだが、友人の親族が彼の地にある久之浜津波の被害に遭い、最後にお聞きした時点では、まだ戻って来ていない。いつか行こうと思っていたが、数年前に勿来の関まで行ったときは、時間がなくてそのまま白河の関まで移動したため、海岸線は今回が初めてになった。


 地理と歴史の勉強から始めます。拙宅から徒歩の行動範囲内。上野に広小路という名の付く交差点や駅がある。地図で見ると南の秋葉原のほうからまっすぐ北上してくる中央通りが、上野の手前で妙な角度で斜め東に曲がる。これは江戸時代に南北を走っていた別の通りに、後から作った上野広小路を、近代になって一本道になるよう強引に接続したためだ(えー、推測です)。

 この上野広小路は、世界史上でも屈指の都市型の大火災として知られる明暦の大火のあとで、当時の会津藩主にして幕僚の保科正之が実施した江戸の都市計画により、延焼を食い止めるため敷かれた大通り。関東大震災度後の後藤新平の役回りと似ている。彼は血がつながった家康の孫だが、秀忠の庶子だったため別姓だった。後にこの家は松平姓を賜り、幕末に新選組のオーナー容保さんを出す。


 上野の寛永寺には、彰義隊が立てこもったが、大村益次郎率いる薩長らの軍勢に追い散らされ、寺は炎上し、拙宅から歩いて3分の場所に別荘(御陰殿)をもっていた寛永寺のトップ、輪王寺宮は関東から東北へと逃げた。この宮様を押し立てて、奥州の諸藩が国防軍を組成した。薩長はこれを賊軍を呼んだ。うちの近所のご先祖たちは、彰義隊の敗残兵をかくまっている。命がけだ。

 奥州征伐の軍勢のうち、太平洋岸は海路を移動し、まず常陸国の平潟に上陸し、平城を攻めた。いまの、いわき市の中心部にある。平藩も、最後まで抵抗した相馬藩も降参し、「官軍」は北上した。次に上陸したのが、吉村昭彰義隊」にも出てくる小名浜である。いわき市内。勿来の北にあり、東北の南端に近い。


 吉村さんは我が家と同じ町内にお住まいになっていた作家で、感情の量は豊かだが筆致は冷静である。いつか「三陸海岸津波」を話題に出した覚えがある。その吉村さんが「彰義隊」の文中では複数の箇所において、このときの官軍が奥州で殺人・強盗・強姦の限りを尽くしたと怒りに燃えて書いている。福島の災難は、今に始まったことではない。

 さて、私はいわき市の名を小学生のころから知っている。この市は広くて、一時は日本一の面積だった。私が生まれ育った静岡市が、小学校時代に安倍郡と合併して巨大化したが、残念ながら2位にとどまった。いわきを抜けなかったのである。


 平(たいら)の名は、山村暮鳥の「おうい雲よ」で始まる詩で覚えたかもしれない。ただし、静岡にある日本平という地名に引きずられて、磐城平も、丘か台地の名前だと信じておった。実際は磐城にある城下町、平のことだ。この磐城と常陸、今の福島県浜通り茨城県をまたぐ地に、明治時代、常磐炭鉱が開発された。

 現代では、そのあたりを走り抜ける常磐線に名が残っている。私が新卒で働き始めたときに初めて乗った通勤電車であり、何のご縁か今は拙宅のバルコニーから線路と列車が見える。これに乗って出かけたわけだ。

 
 これまで何回か特急ひたち号に乗っているのだが、今までで一番空いていたように思う。本来であれば上野から水戸街道沿いを走り、仙台で東北本線に接続する。このルートでブルー・トレインに乗ったこともある。しかし、空いていた最大の理由は、いま通り抜けができないからだろう。いわきの北は、場所によっては住めないほどの放射線が降り注いでいるのだ。

 ちなみに、もう少し前なら震災の関係者や取材陣で、もっと混んでいたかもしれない。もう少し後であれば、天皇皇后両陛下のご一行と同じ時期に福島にいたはずだ。期せずして端境期に現地入りしたらしい。宿泊した小名浜や、北にある目的地の久之浜あたりの地図を写真にとってきた。このすぐ南に勿来がある。すぐ北に広野、楢葉、富岡、大熊、双葉、浪江、南相馬と続く。


 土曜日の朝に用事があったため、出発が遅くなり、いわきの泉駅に着いたときは、もう午後遅くであった。日暮れまでホテルのそばを散歩したのだが、海岸線に出ることはできなかった。沖に小さめのタンカーが停泊していたので港はある程度、機能はしている様子だったが、ホテルの裏の道は、土砂崩れの危険があって歩けないと従業員さんに止められた。

 しからば外へ。少し北方に歩き、地元の方々に道をおそわって、ヨット・ハーバーに降りて行こうとしたが、こちらの車道も護岸工事のため通行止め。もう5年経っているのだが。せめて海岸の写真でも撮ろうと近づいたら、バリケードのセンサーに引っ掛かり、機械の声に入ったらいかんと叱られた。頼んでも駄目そうだったので諦めた。


 せめて一泊した証に、写真を並べます。宿から見た海、着いた日の夕暮れ、翌朝の空、そして近くの公園に咲いていた河津桜。親子連れが夕方の車道で、昔懐かしいラジコン・カーで遊んでいた。

 敵に渡すな、大事なリモコン。楽しそうであった。父上と会釈し合って別れ、刺身で日本酒をいただいて寝た。次の日に久之浜に向かい、すぐ東京に戻るという速足の旅。やはり東京と比べると、この季節まだまだ寒い。





(この稿おわり)











 妻と二人で 沖行く船の 無事を祈って
 灯をかざす 灯をかざす

       「喜びも悲しみも幾歳月」





















































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