おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

大川小学校に向かう  (第1185回)

 前回の続きです。私にとって天災の恐ろしさの度合いは、自然科学的な数値で表させるものと、人的被害という数量だけの問題ではない要素との組み合わせになる。例えば北極のような誰もいないところで、どれほどの大地震があったとしても、前者の学術的な関心は招くだろうが、後者は無縁だから私は災害とは呼ばない。

 自然科学的な数値とは、個別には他に詳しい資料があるので、ここでは項目だけ挙げるが、例えばマグニチュードや震度、津波の高さや余震の頻度など、そして今回は(人災と呼ばれることが多いが)、これらにベクレルとかシーベルトなどの聞き慣れない用語まで登場してしまった。分かりにくいのは、遺族や避難者の生活・雇用の現状。


 人的な被害を数で表すのも相応の心構えが要るが、被災者数、特に損なわれた人命、損壊した家屋や避難している人の数などにも無関心ではいられない。大川小学校の被害も、当初は大勢の小学生が亡くなり、ここが突出して多数だったという報道として、私の耳に届いた。だが、追加情報によれば、それだけではなかった。

 津波の被害は、「逃げたが遅かった」あるいは「逃げたが低すぎた」場合もあったし、何等かの事情や過度の安心感から「逃げなかった」場合もあったと聞く。三陸沖は、かつて吉村昭の「三陸海岸津波」で知ったことだが、明治と昭和に大津波が来たほか、それ以外にも、大小の規模の津波被害がある。

 つまり、逃げることの重要性をよく知っている。率直に言えば、そういう地方だからこそ逃げられた人も多かったはずで、仮に他の場所でいきなり同じことが起きたら、とんでもない騒ぎになったはずだ。ここに、この津波被害の教訓を遺す意義がある。


 この震災における不幸の一つは、平日の昼下がりに発生したため、たとえば祖父母が自宅にいて、両親がそれぞれの職場にいて、子供が学校にいてという具合に地理的に離れていたため、統計は知らないが、その日その時どこにいたかという運不運の結果、家族を失った方々つまりご遺族が、とてつもなく多いはずだ。

 大川小の場合、段々と報道が具体的になるにつれ、被災者の数だけの問題ではなく、上記の「逃げ遅れた」でもなく「逃げなかった」でもなく、「逃げさせなかった」という主張も出てきて、事態は複雑な様相を呈してきた。結論から先にいうと、これが本当なのかどうか、未だに私には分からない。容易に、信ずることも疑うこともできない。


 これでは大手メディアだけの報道では分かりにくいと感じたので、事前調査のようなことは滅多にしない私としては(それをやると、悲劇の地をくまなく探す現地調査みたいになってしまうからです)、珍しく本を一冊買った。

 池上正樹・加藤順子著「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」(青志社)という書籍で、震災の翌年(2012年11月)に発行されている。以下、「前掲書あのとき」と略します。

 行く前にニ三回、帰って来てからも一度読んだ。やはり、想像力の乏しい私のような者にとっては、見ると聞くとは大違いの格言どおり。今では年月も経て、この本の内容と同じような事柄を、ネットで読むことができるが、最初に読んだときは本当に衝撃そのもので、これはいつか慰霊に参らなければならないという、一番の候補になった。


 それでもすぐに出かけなかった理由がまだあって、それは何年か前のテレビのニュースで伝えられた事柄が気になっていたからだ。取材を受けていたのは、大川小で子か孫を失ったという男性で、毎朝早くに掃除やお見舞いのため、小学校まで来ているということだった。

 なぜ早朝にという記者の質問に答えて彼が言うには、昼間だとバスで乗り込んできて写真を撮っただけで帰っていく人たちが多いため、それを避けているのだとのことだった。

 バスに限らず、私も他の被災地で、遠い他県のナンバーをつけた車に乗って来て、携帯端末で写真を撮り、すぐに次の場所に移動する人たちを何度も見た。よそ者の私でさえ、見ていて愉快なものではない。


 英語にはブラック・ツーリズムとか、ダーク・ツーリズムとかいう概念があるらしい。いわゆる華やかな観光名所や温泉などに行くのではなく(これはこれで、私も毎年のように楽しんでいる)、被災地や戦跡など、悲劇が起きた場所を選ぶ。カタルシスになるのだろうか?

 私の場合は、1990年代に駐在したカンボジアで、なんとか安全な観光地と言えばアンコール遺跡しかなかった時代だったので、でもアンコールは遠いから、近場では、クメール・ルージュ時代(日本でいうポルポト政権)に行われた暴政の跡地や、伯父がマリアナで戦死しているので、その戦跡を巡ったりと、ダークな旅も、いつの間にか身についた。そのたび何かを背負って帰り、ブログで放出する。


 大川小学校は、そういう私でも少し気が引けていたのだが、それでも、ようやく決意が固まったのは、昨年度末(2018年3月)で廃校が決まったという報道に接した時だ。これで組織としての大川小学校はなくなり、大川小学校の在籍児童もいなくなり、下世話な言葉で言えば、心理的なハードルが下がった。

 もちろん、多くのご遺族の心境は変わっていないだろう。彼らの震災は続いている。だがら、心の準備をした。現地では通常の旅に増して、無作法な振舞いを避けなければならない。地元では人が見ている前で写真を撮らず、こちらから話しかけるのも控える。形式も整えることにして、お線香を出発日に買い、箪笥から数珠も引っ張り出して、桐の箱ごと持参した。


 今年度から震災遺構となった大川小学校の元校舎は、新北上大橋を渡って正面にある山の南側の麓にある。このあたりは、今では家屋も店舗も流されて、村落があった形跡は、この校舎と道路ぐらいしかない。

 かつては、海岸近くを走る国道と、川沿いを走る県道の交差点があり、加えて河川交通や漁業もあっただろうから、交通の要所であったはずだ(今も道路交通だけはあったが)。国道・県道のほかに、河口方面に進む川沿いの道もある。

 交差すると言っても垂直に交わる十字ではなく、国道が橋を越えて右回りに正面の山を迂回するため、県道との交差点が、そこだけ鋭角になっている。これが、前掲書「あのとき」など、大川小学校の被災状況の説明に出てくる「三角地帯」であり、国道が右に回っている山が「裏山」で、以前から現地の釜屋ではそう呼んでいたのだろう。


 この三角地帯と北上川の間を、ほとんど両者に接するくらいの位置に、富士川という別の河川がある。津波は並行して流れるこの二つの川を遡上してきたため、富士川の水源であろう富士沼の周辺も、津波の被害が大きかったことが、前回の石巻市の被災地図でも分かる。

 大川小学校の一帯は、この富士川や山と川に挟まれた地上を、海からさかのぼって来た津波と、さらに、前回触れたように新北上大橋の地点で、北上川から堤防を越えて溢れ出た津波の両方に巻き込まれたらしい。さらに、山で反射する。ただでさえ津波は何回か押し寄せるというが、このため同地区では繰り返しの波が来て、何度も逃げたり、人によって第何波が最大だったかという証言が異なる。




 写真は、上側のものが新北上大橋の歩道橋からそのまま進んで渡った、次の橋から撮影した富士川の流れ。下の写真は、そのすぐ近くにある三角地帯の花壇。ご遺族が中心となり手入れされている由。

 上の写真は、左に北上川も写っているが、この地点でさえ、両河川の河口は見えない。もう少し、内陸側にある小学校の位置からも見えない。このため、もし私が事前の知識も何もなく、いきなりこの場所に立ったなら、ここは山間部だと思ったはずだ。

 よく見ると、河口の方向に背の高いクレーンが何本か立っていて、あの辺で河口近辺の護岸工事などをしているのだろうかという見当もつくが、それがなければ、山と川、大空と大地に抱かれた土地だ。


 県道を渡れば釜屋という集落の跡地という場所であり、ちょうど三角地帯の交差点反対側にある場所に、幾つもの石碑が立っている。これは他の被災地でも何度か見た光景で、時代が入り乱れており、おそらく地震津波で倒されたものを集め、工事で壊れたりしないよう、手入れの便宜も考えて、一か所に集めているのだろうと思う。

 新しい石碑の中に、「東日本大震災津波横死者 大川地区四百十八精霊位供養之碑」というものがあった。横死とは近ごろ殆ど聞かない言葉だが、大津波という横殴りの強打で不慮の死を迎えた方々の慰霊に向いた表現だと思うと共に、これは悲しみに打ちひしがれているだけの人々からは出そうにない強い言葉だと感じる。




 別の碑に「釜屋の町並み」という写真が貼ってある。時代は分からないが、写っている校舎が今の遺構とは異なるようなので、数十年前のものかと思う。民家や店舗がたくさんある。アングルからして、おそらく裏山に登って撮影したものかと思う。上がその写真です。

 その下に並べたのは、今回わたしが地表から撮影した大川小学校の遠景。向こう側の山容からして、ほぼ同じ場所を写したのは間違いないと思う。いまの釜屋地区には、校舎の跡と県道沿いの電信柱しかない。

 手前の草地を少し歩いてみた。水が溜まっている。児童や先生方は、津波到来の直前、このあたりを通って三角地帯に進もうとして被災した。津波は、黒い煙のようだったという証言がある。長くなったので、もう一回、続きを書きます。



(つづく)









 
いずれも2018年11月13日撮影。
上は学校の近くで私の革ジャンの腕にとまった赤とんぼ。どこに連れて行ってほしかったのか、しばらく離れなかった。
下は新北上大橋から撮影した河口方面。震災発生後の鴨は人に慣れていないのか、私一人が歩いただけで全部飛び立った。











 みちのくの袖の渡りの涙川心のうちにながれてぞすむ   「相模集」



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