おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

2014年 クウェートの返礼 (釜石〜陸前高田〜気仙沼)

 湾岸戦争が始まったとき、私はアメリカ合衆国のサンフランシスコにあるオフィスで働いていました。1990年のことである。いつもは朗らかで強気な米国人の若い同僚たちが、「テラモト、俺は兵隊にとられるかもしれない」と真っ青な顔をしていたのを今でも覚えている。

 当時の米国人上司はかつて空軍でファントムに乗っていたそうだ。もう五十近い年齢とあって最初のうちは落ち着いていたのだが、イラクスカッド・ミサイルをイスラエルに撃ちこんだという昼休みのニュースをTVで一緒に見ていた私に「なんてことを...」と言ったまま頭を抱え込んでしまった。


 アメリカを中心とする多国籍軍サダム・フセインイラク軍をクウェートから追い落として終戦を迎えた翌年、クウェートは「ワシントン・ポスト」「ニューヨーク・タイムズ」といった米国の大新聞に、感謝の意を表する広告を打った。感謝した相手は、アメリカが多国籍軍の参加国として認めた28か国に、クウェートが独自の判断で2か国を加えた。

 この計30か国の中に、多額の資金援助を行った日本の名は無かった。以上は手嶋龍一著「一九九一年 日本の敗北」を参考にしたものである。私もこの広告を見た。当時はクウェートの恩知らずを呪った。でも今はそうは思わない。これはアメリカの意向だろう。事の経緯からしクウェートが同国に逆らえるはずがない。


 現在、わが内閣では憲法閣議決定で解釈し直し、集団的自衛権を合憲扱いにしようとしていると報じられている。我が国に限らず政府が国民にまともな軍事情報を公開するはずがないから、我々は自分の頭で判断するしかない。今回もアメリカの圧力だろうと思う。うちの軍艦を守らないなら、近くの国と戦争になっても知らないよと私がアメリカの大統領だったら言う。

 そのクウェート国の資金援助によって、三陸鉄道は5台の新しい列車を導入することができ、本年とうとう全線開通に至った。このため、現地滞在時に私は見逃してしまったが、当該車両には日本語、英語、そしてクウェート公用語であるアラビア文字で感謝の言葉が記されている(写真は岩手県広聴広報課のサイトより)。念のため、クウェートは電車を買ってくれただけではない。





 この電車で迂闊にも眠ったままだった私は、でもおかげで少し元気を取り戻して陸前高田に至ったものの、あまりの「何もなさ」に茫然自失となった。大槌と同じで遠くにクレーンが見えるが、土地はもっと広くて自分が何処にいるのかさえ分からない。太陽の方向と山の切れ目で海の方角を推測し、そちらに向かって延々と歩いた。途中で引き返したりしたので、また2時間ぐらい歩いたと思う。

 ようやく海岸線近くに建設中の巨大な橋梁の工事現場が見えて来た。その前に、私はなぜかポツンと一つだけ残された3階建ての廃屋の前を通り過ぎた。これも写真では見づらいけれども、屋上に立っている柱か煙突のようなものに、ここまで津波が来たと書いてある。これを信じろといわれましても...。





 名高き一本松の近くまで来たとき、私は情けないことに疲労困憊の体であった。日曜日とあってカメラをぶら下げた一般人が多い。車で来て写真だけ撮って去る観光客を南三陸で大勢見たので、私は少し気を悪くした。だが、駐車場のナンバー・プレートを見ると殆どが県内か近隣県のものだ。この日は5月11日、月の命日。地元の人たちかもしれない。

 松の前のベンチでへたり込んでしまった。しばらく休んでいたら、「旅行で来たのですか」と少し年上の、はやり男の一人旅らしき方に声をかけられた。大きい荷物を二つも持ってぐったりしているのは私だけだから目立ったのだろう。聞けばご本人は岩手ご出身で、ただし内陸の一ノ関のほうからバイクでみえたという。


 この松も修復の前はもう少し活き活きしていたんだが仕方がないなと彼は言った。地震津波の当日、ご本人は関東で仕事をしていたため無事だったが、一ノ関の家族・親戚とは一週間も連絡が取れなかったらしい。みんな大丈夫だったと知り、4月下旬の連休を使って帰省した。その際ここ陸前高田にもお越しになったそうだ。

 当時はもっと地盤が沈下していて、松原もほどんと海水をかぶっていたらしい。そしてその時ここから撮影した町の跡の写真を後で拡大現像したところ、ピンク色のテープが結んである棒がたくさん立っているのに気付いたという。上に瓦礫が重なって助け出せない人の位置を示すものだった。


 近くにNHKのカメラを立てた若い男が二人いたので、私は少し声の音量を上げて彼から詳しい話をいろいろ聴いた。できれば絵になりそうな綺麗な娘さんなど待ってないで、この現地のお方を取材してほしかったからだ。だが日も傾いたころに三脚を仕舞って帰って行った。

 その写真のショックにもめげず、彼は被災地をあちこちバイクで走り、無数の写真を撮りながら被災した家屋が段々と消えていく様子などを記録に残しているのだという。ここ陸前高田では川沿いに津波がかなり遡上して、内陸の橋まで破壊したそうだ。その証拠が今でも近くに残っていた。



 最後に彼が問わず語りに話してくれた弟さん一家のエピソードを書き残そう。あの日、彼の実弟は田老の中学校の先生だった。子供たちを裏山に逃がし、安全が確認できてから校舎に戻って泊まり込んだ。一週間ほどかけて生存者のリストを作り上げてネットにアップし、これはずいぶんと地元の方々には助けになったらしい。

 弟さんのご家族は第一防浪堤の内側にあるご自宅に居た。迷ったらしいが結局逃げた。そして前日に私が歩いて往復した、田老地区の公民館と隣のお寺の間にある狭い坂道を登り切ったとき、目の前まで津波が上がって来て去って行った。第二堤防方面で人命救助にあたった消防署や消防団のみなさんなど多くの人たちが命を落とし、あるいは今も行方が知れない。


 少し暗くなり始めて、私が乗る予定のバスの時刻が迫っている。もっとお話しを伺いたかったが、事情をお伝えしてお暇することにした。「帰路、お気をつけて」と言って彼は見送ってくれた。お辞儀をして、もう一度、松の木を見上げる。避雷針が立っていた。献花台にお花が添えてある。いつもの自問自答を繰り返す。ここに何をしに来たのだろう。

 バスで気仙沼に抜けた。ここも更地が点々と残っている。そこから電車に乗って一ノ関に出た。沿線は田植えの季節。岩手に来ておきながら遠野にも平泉にも行かず、あとは夕食をとって一泊し、翌朝、新幹線に乗る。3年以上経っても、こうなのか。間違いなく来た甲斐はあったが、この先どうなるのだろう。散々歩いたので日焼けして東京に戻り、海にでも行って来たのかと訊かれた。まあ、確かに海だ。




(この稿おわり)






(2014年5月11日、陸前高田市にて撮影)



















 我は海の子 白浪の騒ぐ磯辺の松原に
 煙たなびく苫屋こそ 我が懐かしき住み家なれ

 生れて潮に湯あみして 波を子守の歌と聴き
 千里寄せくる海の気を 吸いて童となりにけり

 高く鼻つく磯の香に 不断の花の香りあり
 渚の松に吹く風を いみじき楽と我は聞く
























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