おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

テロリスト  (20世紀少年 第917回)

 悲惨な事件が起きた。小欄は私の気分転換のためというのが一番の目的なので、得てして不愉快な思いをするややこしい時事問題はできるだけ避けてきたのだが、テロリストと呼ばれた男が主人公の漫画について延々と感想文を書いてきて、ここで逃げるのは何だか落ち着かない。

 そこで、例によってまとまりも結論もない文章になるが、現時点での思いを書き留めておきます。まずは例によって用語の辞書的な意味を確認すべく、我が家の広辞苑第六版にご登場願う。


 まず「テロリスト」。辞書いわく「テロリズムを奉ずる人」。上手く逃げたなと一瞬、思ったが「奉ずる」というのが引っかかる。「奉ずる」にはたくさんの語義があるが、「信じて、それにそむかず生きる」というのが、この場合は一番近い意味のように思う。

 つまり、実行犯でなくても信者などは該当するのだ。では肝心の「テロリズム」。①政治目的のために、暴力あるいはその脅威に訴える傾向。また、その行為。暴力主義。テロ。②恐怖政治。


 もう一つ参考まで、「ゲリラ」。意外な由来があって、「もとスペイン語で小戦争の意。ナポレオンのスペイン征服当時、スペイン民衆のしばしば用いた戦法に由来する語」という前置きがある。西語だったのね。

 辞書の本文は「奇襲して敵を混乱させるなど、遊撃戦を行う小部隊。また、その遊撃戦法。」とある。両者の語感からして、ゲリラは善悪をさておいた軍事用語であり、テロリズムは否定的な印象を与える政治用語であろうか。ゲリラ豪雨という呼び方は変だな。


 ゲリラに言及したのは個人的な理由だが、かつてこちらの方がテロリスト・テロリズムより、よく使われていたような印象を持っているからだ。そして、しばしばヒロイックな連中として扱われる。アラビアのロレンスとかチェ・ゲバラとか。源義経も楠正成もそうだ。

 私が子供のころ天下のアメリカ軍を放逐した南ベトナム解放戦線も、アラファトさんのPLOも、「大脱走」や「ニューシネマ・パラダイス」に出て来たパルチザンも、ゲリラと呼ばれていたような覚えがある。

 後世になって実害を受ける心配も利害得失もなくなり、人気が出るとゲリラも格好いい存在になる。だからだろう、昨今、敵対者は正規軍以外の暴力装置をゲリラとは呼ばず、必ずテロリストと非難をこめてレッテルを張る。

 オッチョがベレッタやトカレフを調達して、ケンヂがダイナマイトをどこからか買ってきたか拝借してきたかの時点で、彼らは「現実的に考えるとこういうことになる」という次第で、ゲリラになった。多勢に無勢、奇襲攪乱戦法しかないという状況判断である。


 また、ケンヂはその前から大学などに侵入して、研究室を爆破したり、スタンガンやフロッピー・ディスク(懐かしい)を盗み出している。こんなことを言うと愛読者から総すかんを食らいそうだが、先述の「政治目的のために、暴力あるいはその脅威に訴える傾向」という意味において、”ともだち”側からすればケンヂ一派は、間違いなくテロリストなのである。

 被害・罪状の誇張があるだけで、敵対者の立場に身を置けば、100%の冤罪ではない。テロリズムは政治用語だろうから、立場によって意味合いが異なる相対的な言葉(蔑称と言ってよかろう)である。赤穂浪士桜田門外も相手にとってはテロだったのだ。


 また、戦争をするためには宣戦布告とか捕虜の人権とか、自分たちで作り上げて来た国際法が足を引っ張るため、かつての日本が現在の呼称でいう日中戦争を日華事変と名付けたように(事変とは治安の悪化です)、現代の欧米諸国はあくまで戦争と同じ攻撃方法を使っていても、ひたすら相手をテロリストと呼び、実質的に、戦争ではないと主張している。掛け声として、テロとの戦争だと勇むことはあるけれど。

 こう書いていると、なんだか私が今回の惨事を引き起こしたイスラム原理主義テロリストを擁護しているかのような誤解を生んでしまいそうなので、早めにお断りしておくが、そんなはずがない。以上は単なる頭の整理のようなもの。


 生きて元気に戻って来てほしいと、ただそれだけを願ってきたが、状況は絶望的であるらしい。このあとで恐いのは、このブログでも再三再四、書いてきたように、本来、ムスリムは日本人顔負けの穏やかな人々であり、間違いなく大半の日本人より敬虔な宗徒である。その大多数が、一部の思想的狂人や無差別殺人鬼と一緒くたにされて、差別や攻撃を日本中、世界中で受けるのが恐ろしい。

 私が知らないところで、とっくにそれは現実のものになっているだろうと感じる。残念ながら私たちは、テロリストが普通の外見に戻ったら、温和なイスラム教徒との区別がつかない。どうしても、危うきに近寄らず、識別できない以上まとめて避けるという考え方や行動を取ってしまう。イスラム教に関し、この難題について、これまで殆ど傍観者に近かった日本も、これからは当事者である。


 先日の飲み会の席上でも本件が話題になったのだが、多くの人がテロリストの張本人を「イスラム教徒」と呼んでいた。言葉の独り歩きは本当に恐ろしい。一般の教徒と原理主義テロリストの使い分けを厳密にしないと、知らないうちに(すでに近隣諸国に対して同じようなことが起きているが)、ある民族やある宗教の信者の全てが、危険で凶暴で愚劣であるような先入観の虜になってしまう。この漫画と同様の思考停止状態に陥ってしまう。

 長くなってきたので、後半を次回にまわします。



(この稿つづく)






日出づる国か   (2015年1月25日撮影)























 死の淵に佇み 何を感じて群がる...

  「テロリスト」   聖飢魔Ⅱ (作詞 デーモン小暮閣下







































.