ケンヂが軽音の前でジャンピング・ジャック・フラッシュを弾き、私が大学に進んだ1979年、ソビエト連邦がアフガニスタンに軍事侵攻し、戦争は十年に及んだ。これを受けて日本政府は、1980年のモスクワ・オリンピックをボイコットした。
体育の授業中に「このボイコット、どう思う?」と教授に訊かれたのを覚えている。きっとスポーツの専門家だから、オリンピックに政治を介入されてはいかんと仰るだろうと思ったが、先生は「当然のことだ。ソ連のやっていることはけしからん」と断言した。
さあ、今の日本政府はどうする。ソチのメダルはそのままか、それとも返上しますか。パラリンピックもこれからだ。嫌われるんだろうな、こういうこと書くと。北の熊公はまたぞろ本性を現し、U.S.S.R.の時代に逆戻り。ラビット・ナボコフでもやって遊んでりゃいいのに。
Well, the Ukraine girls really knock me out.
They leave the west behind...
本題に戻ります。上巻の13ページ目、姪のカンナが苦境に陥り、叔父の助けを借りようと悪戦苦闘していたころ、肝心のケンヂおじちゃんは依然としてヴァーチャル・アトラクション(VA)の中を放浪中であった。
いつの間にか万丈目と離れ離れになったらしく、彼一人で歩いている。彼がVAに入ったときは夜だったが、一夜明けたのか今は昼間であり、ケンヂは「暑つ〜」と文句を言っている。それでも青のジャケットを着たまま、ギターを背負ったままだ。
これまで出てきたVAのシーン夏ばかりである。このアトラクションを企画・設計した者は、1970年の首吊り坂と1971年の夜の理科室に尋常ならざる執着心を抱いており、いずれも季節は夏だから両方に参加したコイズミも暑さに参っている。
今回のタイトルは、ただ単に夏から連想した曲名を拝借しただけで、借りておいてこう言うのも何だが、山口百恵という2学年上のアイドルを余り好きではなかった。彼女のせいではなくプロダクションの売り込み戦術だろうが、彼女の歌詞は思わせぶりなだけで品位に欠け、そしていつも不機嫌そうに見えた。
そして、私にとって致命的だったのは、彼女の声が金属音でキンキンと響いて聴こえるし、声量もプロの歌手と呼ぶには不足であったと思う。なぜあんなに人気があったのか今もって分からない。別に恨みはないけれど納得がいかないのです。昔は山口で今は三浦か...。
話題を変えて経験といえば、モンタレーのロック・フェスティバルに出演したころにジミ・ヘンドリクスが率いていたバンドは「The Jimi Hendrix Experience」という奇妙な名前だった。ヴォーカルとギターがジミで、腕っこきのベースにドラムの3人編成というケンヂのバンドと同じ構成である。
脱線おわり。ケンヂは道端で子供たちが騒いでいるのに気付いた。見れば3人の小学生くらいの男子が、ナショナルキッドのお面の子をいたぶっている。イジメっ子らはお面の子の背中を踏んでは「見えない」「居ない」と囃し立て、頭を蹴飛ばしては「何かにつまづいた」とはしゃいでいる。
この悪質な集団暴行に対してお面の少年は無抵抗であり、地面にうつ伏せになったまま動かない。一人が「やっぱ犯罪者だな」と言い、他の子が「サンセイのハンタイなのだ」と言う。おそらく上巻で「犯罪者だ」「ハイそれまでョ」と言っていた連中だろう。「見えない」はフクベエのマネ。
サンセイのハンタイは、かつてヨシツネも使っていたがバカボンのパパの決めゼリフの一つで、バカな俺達もよく真似たものです。私はなぜか赤塚漫画の登場人物よりも、脇役のニャロメとかケムンパスとかベシが好きで、授業中に教科書の隅っこのほうに描いていたものである。
赤塚先生はニャロメを描くときは目玉から描き始め、手塚先生は鉄腕アトムを描くときは頭の角から描き始めた。私のような凡人は輪郭から描いてしまうので、常に固くて同じような絵になってしまう。
美術学校に通っていた若き日のゴッホは、目や鼻から人物画を描いていたところ、絵の先生から輪郭を先に描けと指導されて怒り学校を辞めてしまった。彼が残した多くの自画像のデッサンがそれぞれ微妙に違っているのは、この「へのへのもへじ」筆法が関係しているのかもしれない。
イジメっこたちは「これ」をサッカー・ボールにしてサッカーをやろうと言い出す。サッカーは一説によると古代、戦争で殺した相手の頭蓋骨を蹴って遊んだか祭ったか、そんな風習が残ったものという話を聞いたことがあるが、ここでの「これ」は生身の人間である。
流血沙汰を予想してか「本当に赤き血のイレブンになてしまうのだ」と別の奴が言う。サッカーのアニメ「赤き血のイレブン」は最初のころ熱心に観ていたのだが、サッカーボールが余りに無茶な動きをするので途中で見なくなってしまった。大リーグボールどころではない。空中で一旦停止し、振り子のように揺れたりするのだ。
漫画ではその次に玉井慎吾の名が出てくる。このアニメの主人公の高校生である。エンディング・テーマの歌詞は「バカか利口か分からない」という件についての判断を留保している箇所を除き、概ねケンヂ少年と似たり寄ったりの性格であることが分かる。
この残酷な暴行が現実にあったこととして、この子たちはお面の少年を誰だと思ってイジメているのだろう。お面にイジメとくればサダキヨというのが、これまでの常識であった。このイジメの場所はジジババの店先ではないから、おそらく後日のことだろう。誰だか分かってイジメているのだろうか。
2学期以降のカツマタ君にとって災難だったのは、もう一人のナショナルキッドのサダキヨが始業式を待たずして転校してしまったことだろう。このため、小銭を巻き上げるという動機のサダキヨ(という誤解)に対する暴力と、犯罪者に対する死刑という仮想の刑罰を一人で引き受ける破目になったはずだ。
これでは学校に行きたくなくなっても仕方がない。実際に不登校になったかどうかは知らないが、彼は好きなはずのフナの解剖の日すら登校できなかったのかもしれない。でも夜の理科室なら目立たず行ける。
山根が戸倉に「カツマタ君の幽霊」と言っていたのは、フクベエと彼が「おまえは今日で死にました」と宣告したのだから、一応は平仄が合っている。カツマタ君が実験の前の日に死んだという噂の出どころは、この両名であった確率が高い。
中学生のときにサダキヨが死んだことになったのも、手口からして同一犯の可能性がある。それでも二人のナショナルキッドがフクベエと離れられられなかったのは他に誰も遊んでくれず、良し悪しはともかくフクベエと山根は言葉の暴力に長けてはいても、踏んだり蹴ったりはしなかったからかもしれない。
通りがかりのケンヂはこの乱暴狼藉を看過できず、「いい加減にしろ」と主犯格の腕をひっつかんで止めさせた。脅迫に使った武器は「強烈なデコピン」である。デコピンはトモコさんとコイズミ以来の登場であるが、悪童どもにも十分な効果があって逃げ散った。ただし「ユーカイハンだ」「三億円事件だ」と弱い悪役らしく捨て台詞を残している。
(この稿おわり)
20世紀手紙
(紙には見えないが2014年1月19日撮影、上野公園にて)
たとえこの世界に終わりが訪れたとしても 変わらない君への想い
いつかこの宇宙が新しく始まるときまで 変わらない君への愛
「経験の唄」 佐野元春
But first, are you experienced?
Have you ever been experienced?
Well, I have...
”Are you experienced?” The Jimi Hendrix Experience
.