おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

映画 (20世紀少年 第892回)

 映画「20世紀少年」の「DVDセット」というのを買って何回か観ました。定価10,000円と書いてある。今の私にとっては巨額の投資であるが、おかげさまで楽しませてもらった。以下、映画をまだ観ていない人はご注意ください。

 あの漫画や、あの時代をとてもうまく映像化していると思う。よくそ作ってくれました。制作は、近年はやりの「20世紀少年制作委員会」という芸のない名乗りになっているが、まあいいや。


 とはいえ制作に加わった各企業名は個別に、映画にはもちろん、DVDの箱にも印刷されている。肝心の小学館は二番目で、筆頭は日本テレビになっている。日テレさん、頑張ったねえ。仕事で遠い遠い縁があるのだが、古いラジオやらレコードやら揃えるのも大変だっただろう。

 三番目に配給も担当した東宝が出てくる。劇中に登場したゴジラの息子は、この映画会社のフィルムから拝借したのではないか。まことに残念なことに日活は関与していないようだ。


 あれだけの長編漫画だから、全てを映像化していたらきりがない。誰が作っても、何処かを登場少年の誰かを削らなくては商品化できない。だから余り文句は言わない。でもちょっとは言う。

 登場人物の中では、関口先生の出番が皆無に近く、長髪の殺人鬼を万丈目が兼務しているのが少し寂しい。それから折角、ユースケ・サンタマリアほどの怪優を得ながら、サダキヨをあそこでひっこめるのは余りに勿体ない。

 
 エピソードの割愛という点では、ショーグンのバンコクでの暴れっぷりが足りないし、コイズミはすっかりカンナの脇に回ってしまって、特にボウリングのテーマが抜け落ちたのは残念。キリコの海外放浪も消えた。

 これらは止むを得ない。仮に私が作っても、似たような取捨選択をせざるを得ないだろうから。また、何といっても首吊り坂の肝だめしが出て来なかったのは無念である。だが、これと夜の理科室と両方を収録するのは時間的に無理だったろう。それにあの出来事はフクベエが主役だから。


 それよりも原作を変えた部分で、自分だったら絶対これはやらないという点を三つ挙げる。繰り返すが映画そのものは成功だと思うし、非難するつもりはない。とはいえ好みの問題なので反論されても譲らない。

 一つ目はヨシツネを容疑者に仕立てたこと。よりミステリ風にしたかったのだろうが、漫画でヨシツネが果たした役割を考えると、著しく原作の魅力を損ねた。あれでは最後になぜ彼が国連でスピーチしているのか、漫画を読まずに映画で初めて接した人には訳が分からないだろう。


 二つ目はオッチョを暗殺犯に仕立てたこと。これは未遂に終わったが、それで帳消しになるものではない。私は暗殺という行為そのものが大嫌いなのだ。理由は不明。もしももしも前世というものがあるのなら、前の人生で暗殺されたのかもしれない。司馬遼太郎も暗殺を嫌い、ただし桜田門外の変だけは時代を推し進めた出来事として評価しているが、私はこれにすら賛同できない。

 秘密基地の仲間もおおむね同意見だろう。手榴弾による自爆テロも漫画では、マルオは踏みとどまったし、カンナはユキジに厳しく説教されている。さらに映画では、オッチョに新宿で”ともだち”を「絶交」させようとしたのだ。ファンは不愉快ではないのだろうか?? ついでに言うと映画ではケンヂも、ステージ上の”ともだち”を「レザーぢゅう」で撃ち損ねている。


 三つ目。これは難しい論点だ。少年時代にフクベエを死なせたことである。一般論としては映画化にあたり、犯人も含めて大がかりな改編をすること自体を私は否定しない。もっと面白くなるなら大歓迎だ。ちなみに原作者と映画監督の喧嘩も大好き。

 ソラリスではレムとタルコフスキーが衝突したというから、ぜひ実見したかったものである。ムーアの「華氏911」にブラッドベリは不快感を露わにし、私は観ていないが「ゲド戦記」はグウィンを怒らせた。さすがは黒澤明、みずから脚本にも加わって自己流を貫いたが、勝新だけはヤンチャすぎたみたい。


 この映画の真犯人について原作者がどう評価したのか知らないが、私が気に入らないのは、いくらなんでも小学校の同学年の子が本当に死んだら忘れるはずがないという点を根底から無視していることである。ケンヂやヨシツネの記憶力ではともかく、ユキジやオッチョやモンちゃんが忘れるか?

 漫画のカツマタ君は、実は死んでいなかったからこそ流言飛語でみんなの記憶が混乱し、理科の実験大好きと化けて出る話だけが思い出になってしまった。原作ではリアリティがあるかどうかの限界あたりに設定がなされている。この点で映画は無茶だ。


 こんな話題を出したのは、これから時々、映画の感想も書こうと思っているので、ついては悪口を先にまとめて片付けておきたかっただけである。私は食事のときも、嫌いなものを先に食べるタイプなのです。

 最後におまけでもう一つ残念だったのは、多分この映画が最後のチャンスであっただろうと思われるケロヨンの本名がついに分からずじまいであったことだ。俺達の旗を取り戻した男なのに。蕎麦打ちの腕も上げたのに。


 秘密基地の仲間や双子らがケロヨンをケロヨンと呼び続けるのは避けようがない。だが、せめてキリコだけは良識ある態度を見せてほしかった。しかし、アメリカの工場で救出されたときのナレーションでも「ケロヨン」とキリコは呼び捨てている。

 命の恩人に対してそれで良いのかという道義的な問題すら残したまま終わってしまった。この件を合理的に整理するとしたら、ケロヨンの本名はケロヨンであると考えるほかない。映画では”ともだち”が「バハハーイ」を盛んに繰り返していたから、案外、ケロヨンには好意を持っていたかもしれん。



(この稿おわり)





実家の米櫃。推定年齢六十歳。
木工職人の祖父が作り、今も母が小物入れに使っている。
(2014年6月23日撮影)






関東平野の梅雨雲。群馬にて。
(2014年6月27日撮影)







 別に今さら おまえの顔見て
 蕎麦など食っても 仕方がないんだけれど
 居留守つかうのも なんだかみたいで
 何のかんのと 割り箸を折っている

      「蕎麦屋」   中島みゆき













朝顔市 (2014年7月6日撮影、おそれ入谷の鬼子母神にて)