おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

表紙絵 (20世紀少年 第843回)

 ここしばらく体調不良が続いたせいか文章が乱雑というか攻撃的になっている。今日も腹の立つニュースを読んだのですが、事実関係だけ触れるにとどめよう。1998年だったと思う。ちょうどケンヂやカンナが地下での生活を強いられていたころだ。

 長い休みをもらって親戚がいたオランダに旅行した際、アムステルダムアンネ・フランクが2年間の隠れ家生活を余儀なくされていた家を訪ねた。彼女は日記に名前を付けて、語りかけるように書き続けている。

 友達にも自由に会えない生活だったのだ。しかもそれは悲劇の序曲に過ぎなかった。そもそも図書館の本を破ることだけでも言語道断の不法行為である。これは日本の恥であり、つまり私の恥である。何が気に入らないのだろう??


 さて、いよいよ最後の下巻に入りつつあります。表紙絵を眺めるのも、これで最後。向かって右側に”ともだち”、左側にケンヂ少年の顔がそれぞれ半分。ケンヂの嬉しそうな顔はサダキヨをお見送りしたときものもかもしれない。

 背景はT.レックスのシングル・レコード「20th Century Boy」のジャケットと、宇宙特捜隊のオレンジ色のバッヂ。下巻の巻名は「21世紀少年」になっている。なぜ最後の二巻の作品名が「21世紀少年」になっているのか私はいまだに分からない。


 コミックスの最初の頃は表紙に書かれていた英語のあらすじは、下巻では扉絵に描かれたケンヂのポートレートの下に書き添えられている。その後半は、「What the "friend" really is!? Why he became evil!?  The answer is connected with the memory when Kenji was a Twentieth century boy.」。

 ネイティブの英語ではありませんね。でも我ら日本人にはかえって分かりやすい。”ともだち”の正体は? なぜ彼は邪悪なるものと化したか? その答えはケンヂが20世紀少年だったころの記憶と結びついている。「関係がある」と言いたかったのかもしれないが、このまま「結びついている」のほうが村上春樹的でよい。


 第20集で”ともだち”は別れ際にカンナに向かって、「僕こそが20世紀少年だ」と釘を指すように言った。カンナは真意を量りかねている様子である。「僕こそが」という言い方は、誰かと張り合っているに違いないが、カンナではなくてケンヂだろうな、やはり。お互い「boy」同士だし。

 歌曲「20世紀少年」の出番といえば、それほど多くなくて最初と最後に出てくる第四中学校の屋上、キリコがダニー少年に弟の思い出話を話して聞かせたニュー・メキシコ、そして血の大みそかにトランシーバーをオンにしたままケンヂががなるように一緒に歌っていたのは、フクベエのカセットから流れていたこの歌だった。そしてフクベエのニセ自宅にあったT.レックスのCD。


 ”ともだち”はこのどれかと結びついているのだ。キリコの件は関係なさそう。最後の第四中学校はヴァーチャル・アトラクションに過ぎないことを忘れないようにしよう。そして血の大みそかに、すり替わった”ともだち”がどこで何をしていたかも分からない。でもどこかで聴いていたような気がする。何となく。

 では何を張り合おうというのか。自分が主役だということだろうか。それでは先ず例の「登場少年紹介」における”ともだち”の紹介文を下巻で確かめましょう。「正体不明の独裁者。ケンヂの同級生。人類滅亡計画の首謀者」。ケンヂの同級生? 学年は一緒だが、まあ深追いはやめよう。長い人生、どこかで同じ学級にもなるさ。


 独裁者。先に触れた第20集の表紙絵は、美しき青き地球が神様の感想みたいにボウリングの球のように描かれていて、それを”ともだち”があたかも鷲づかみにしようとしているかのような気味の悪い装丁である。

 どこかで見たことがあるような絵だとずっと思っていたのだが、近ごろやっとで思い当たった。映画「チャップリンの独裁者」である。観たことがある方は、きっと私と同様、忘れられないシーンが二つはあるはずだ。


 その一つは最後の床屋さんスピーチである。この映画の公開は1940年。ナチス・ドイツが破竹の勢いで欧州を席巻していたとき。その時代にこの内容でこの迫力だ。

 ちょっと長いというか理屈が多いけれど、でもこれに比べたら悪いけれどジョン・レノンの「イマジン」なんてツイートみたいなものだ(後記:済みません。やっぱり、言い過ぎです。反省のため、残します)。

 1940年は前年に公開された「風と共に去りぬ」がオスカーを受賞した年でもあり、日本は翌年にこの国に対して真珠湾攻撃を仕掛けたことになる。山本さんは半年や一年なら何とかがんばると仰ったそうだが長引いてしまった。なお、ジョン・レノンも1940年の生まれです。


 もう一つの印象的なシーンは、チャプリン一人二役で演じた独裁者が執務室のような部屋の中で、地球状の大きな風船を弄んでいる場面である。これと第20集の表紙が私には同じように見えたのだった。

 ヒトラーチャプリンの生年月日は4日しか違わない。二人の19世紀少年は大変な苦労人だったそうだが、余りに違う方法で世の中を変えようとした。この漫画でも似たようなことが起きている。


 高校生のとき英語のテキストに載っていたガンジーの顔写真と似ているということで、しばらく私は「ガンジー」と呼ばれていた時期がある。このため自分とは事績も人格も隔絶しているとはいえ愛着がある。原語で何と言ったのか正確に知らないが、ガンジーにはこんな言葉がある。

 「世の中を変えようと思うのならば、まずそのように自らを変えよ」。彼は暴力のない世の中に変えようとし、その手段として暴力を使わず、暴力に倒れてこの世を去った。ケンヂが「決着」としきりに言っているのは、要するに自らを変えて出直す決意を示すものであろう。さて、下巻に入ります。




(この稿おわり)









 なんだか自由になったように
 いきがっていあのかも知れないんだ
 間に合うかもしれない 今なら
 今の自分を変えるのは今なんだ

             「間に合うかもしれない」  吉田拓郎






































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