おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

屋上への階段 (20世紀少年 第880回)

 先日、イギリスのテレビ・ドラマ「シャーロック」を観ていたら、主人公のホームズがゴルフやビリヤードのような硬いボールを脇に強くはさむと腕の血流が止まり、手首で測れるはずの脈拍が一旦、止まると主張する場面が出てきた。

 ワトソン先生もつい騙された。私もつい第12集の最後を確認してしまったが、フクベエにはそんな余裕や知恵はなさそうである。自分でも試してもみたが、自分で自分の脈は測り辛いということが分かっただけだった。


 下巻の最終話「20世紀少年」に入る。いろいろな場面が出てくるのだが、最初は学校の階段を上る誰かだ。これとほぼ同じ情景は第21集第7話の「仮面の告白」にも出て来た。ケンヂが「20世紀少年」のシングル・レコードを抱えて放送室に向かうシーンの続きである。

 第21集はこれに続いて「今日がその日だ」と”ともだち”が独り言で語る。嫌な過去でも思い出したのか、それともパジャマ姿だったから悪い夢でも見たのか。ただし、このときは「今の世の中」と「僕」の要否につき自問自答してるものの、結論は明確には出ていない。


 ただし「こんな世の中...」で終わっているから嫌な予感がするわけだが、案の上、このあとで「世界を終わらせます」宣言を出し、ケンヂ君に遊びましょと言っている。

 下巻はヴァーチャル・アトラクションで次々と昔の話が出てくるので、この生徒が階段を上る場面が仮想なのか現実なのか判然としない。でも貴重な心象風景のエピソードなので、本当にあったことだと考えよう。


 第21集と下巻を併せて読めば、この出来事がケンヂの放送室ジャックの昼休みに起き、ケンヂと同じ中学の生徒が”ともだち”であり、ケンヂは彼をカツマタ君だと断定してユキジに報告しているということだろう。

 第21集のケンヂは興奮状態にはあるものの、素顔の相手と廊下ですれ違っている。たぶん相手はケンヂが持っていたレコードの曲名まで見ているのだから(もっとも曲名を覚えたのは屋上かもしれない)、しばらくそこに佇んで様子を見ていたのかもしれない。そして、ケンヂも相手の顔を見た可能性がある。


 第22集において、バッヂ騒動の日について読者に与えらた情報は、ケンヂが電信柱の陰でジジババの店から出来てたナショナルキッドのお面小僧が、胸にバッヂをつけて駆け去るシーンだけだ。それを回想するケンヂは、あれが全ての始まりだったと言っている。端からフクベエの復活など信じていない。

 なぜケンヂはあのときのバッヂのナショナルキッドがサダキヨではないと思ったのか、そして、どのようにしてその少年が今の”ともだち”と同一人物だという確信を得たのかという疑問を放置したままになっている。困った。


 キリコでさえ、ナショナルキッドが二人いたことを覚えている。同じ学年で行動範囲も似たようなものだったはずのケンヂ少年が、二人いることを知らなかったとは思えない。

 だが、彼がマルオやプロファイラーに誰だと訊かれても知らねえと答えているのは、そのあとでヴァーチャルの万丈目から素性を訊きだそうとしていることからして嘘ではあるまい。仮に心当たりはあったとしても、まだ判断しきれなかったのだ。


 そのことをユキジも知っていたか、あるいは、ケンヂがもう一度、アトラクションに入ると言い出したときに感づいたのだろう。単に「ごめんなさない」だけの再冒険ではない。だからこそ戻ってきたとき、”ともだち”が誰か分かったのかと尋ねているのだ。

 そういえば第四中学校に初めてロックが流れた日、ユキジも廊下に出てきて、ケンヂとすれ違った男子生徒の顔を見ているかもしれない。第21集の絵を見ると、その確率は高そうだ。今も覚えているかどうかは、ともかくとして。間もなく分かるが、ケンヂも含めたこの三名がこの日の決定的な出来事の当事者なのだ。


 最終話。上履きをはいた少年は、今の世の中は必要か、僕は必要かと悩みながら、屋上への階段を上っていく。今なお持ち歩いているらしいナショナルキッドのお面をかぶり、屋上に出るドアにたどり着いたとき結論が出た。「こんな世の中、いらない」と決まった。

 ではなぜ、飛び降りるのか。哲学には認識論という分野があると高校2年生のとき公民の授業で教わった。哲学者の中には、自分が知覚できない物は存在しないと主張する人もいるらしい。素粒子もビッグバンも単なる想像に過ぎないと言われてみればそれもそうだ。


 その伝でいくと、死んでしまえば今の世の中も存在しないということになる。実際はたぶん私があの世に行っても、他の連中は逞しく生きていくだろうが確認のしようがない。私としては世間と付き合う必要も可能性もなくなるだけだ。

 今の世の中を道連れにできない以上、中学生に残された最後の手段がこれだったということか。約半世紀後の人々の悲劇を考えると、そのまま好きにしてやればよかったのにと、フィクションだからこそ言えるのだが、そうはならなかった。


 「何も変わらなかった」どころではなかったのだ。もうすぐ下巻も終わりだが、そのあとはもう一度、のんびり読み直してみようと思う。何か見落としているような感じもする。

 昼休みの太陽が屋上を照らしているらしい。天気は好いようだが、少年は青空を眺める余裕もない様子だ。1973年の夏服の季節。ケンヂは60年代がロックの時代だと言っていたが、「雨を見たかい」は1970年、「20世紀少年」はこの1973年に発表された曲です。




(この稿おわり)






拙宅の花壇  (2014年4月5日撮影)







 Yes, how many times must a man look up
 before he can see the sky ?
 Yes, how many ears must one man have
 before he can hear people cry ?
 Yes, how many deaths will it take till he knows
 that too many people have died ?
 The answer, my friend, is blowin' in the wind,
 the answer is blowin' in the wind.

          「風に吹かれて」  ボブ・ディラン