おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

すべての始まり (20世紀少年 第674回)

 フィクション作品のキャッチ・コピーや、文中で過去の出来事を強調するときの決まり文句の一つに、「すべては○○が始まりであった」といったような表現がある。「20世紀少年」ならば、すべては秘密基地で始まったとも言えるし、すべては「よげんの書」が始まりであったともいえる。ただし、ページの順番でいくと、そうではない。「20世紀少年」は中学校で始まっているのであり、または放送室からと言ってもよい。

 あるいは、漫画「20世紀少年」はロックの曲「20世紀少年」で始まったと言えなくもない。そういえば昔、連載時の「20世紀少年」の感想をネットの書き込みなどで読んでいたとき、”ともだち”の正体の謎解き(第12集)あたりで止めておけばよかったのに人気が出たのでダラダラ続けたなどという趣旨の批判も読んだ。漫画やドラマなどに人気が出れば長続きするのも当然なのだが、この書き手の心情もわからないこともない。


 すでに触れたが心当たりは二つ。一つは「21世紀少年」の最後がミステリ的には釈然としない結末を迎えたこと。もう一つは、西暦が終わって以降、ともだち歴の社会はとにかく陰惨であり、この私も感想文を書きながらなんとか盛り上がろう盛り上げようと苦心惨憺しているのだが、なかなか上手くいかない。だが、ここを通過しないと最後のケンヂたちの活躍に結びつかないのだから仕方がない。長編にはそういう山あり谷ありの変化も必要なのだ。

 長続きしたとはいえ本作の場合、途中で新しいストーリーを継ぎ枝したとは言えないと思う。なぜならば第1集の冒頭に出てくる放送室の一幕と、次のカンナが巨大ロボットを見て「またアレが...」というシーンからして、すでに連載開始当時から終幕の大筋が出来上がっていたと考えてよかろう。特にロボットの再出現については疑いない。では放送室のほうも間違いないだろうか。


 ネット情報によるとT.rexがシングル「20th Century Boy」を発表したのは1973年の3月であるらしい。私が小学校を卒業したころだ。その年の衣替えが終わって夏服に着替えたクラスメートらに向け、ケンヂは放送室を占拠して第四中学校に何等かの変化をもたらすべくこの曲を流した。「でも、何も変わらなかった」と、おそらく中学生当時のケンヂの独白が収録されている。
 
 彼が好きなのは60年代のロックの時代であるはずで、実際、物語に出てくるバンドやシンガーや曲やアルバムの名は、60年代のものが主となっている。ウッドストックも然り。その中でT.rexの「20th Century Boy」は異色の70年代だが、よほど気に入っていたのだろう。ホウキ・ギターを振り回しているところを見ると、マーク・ボランのリフがお気に入りだったのではないか。


 次にT.rexが登場するのは、1997年の同級会の夜、酔いつぶれたフクベエのベッド・サイドに置かれていたCDであるが、ケンヂはそれを手にして「懐かしいな、20センチュリー・ボーイ」という端的な感想を述べるにとどまっている。やっぱり、バンドのファンというより、この曲が特に好きであったらしい。フクベエは同級生だから、これを聴いていても違和感は持たなかった様子。

 お次は第7集の191ページ、ショーグンと神様による血の大みそかの回顧シーン。トラックの運転席でマルオが、「フクベエがよくかけてたカセットだ」と言っている。シールに「70's Rock」とあるので、フクベエはケンヂと趣味が異なっている様子である。カセットを入れて最初に流れ出した曲は、「ガガー」という擬音語からしておそらく「20世紀少年」だろう。ケンヂが一緒にがなり散らしていたことは後年、神様がコイズミに証言している。


 それに続く第11話「突入」に1973年の放送室の場面が再現されているが、ケンヂはフクベエが遺したこのカセットを聴くまで、放送室事件のことを忘れていたとマルオに語っている。1997年には思い出せなかったらしい。無理もない。彼の主観では放送室ジャックは、何も変わらなかった空振りの出来事だったのだから。だが、これから物語を読み進めていくと、どうやら何も変わらなかったどころではなさそうだ。

 それにしても以上のように、T.rexと「20th Century Boy」はこれまでのところケンヂとフクベエとの関わりにおいてのみ登場しており、しかしそのフクベエは「20世紀少年」に何ら言及することなく世を去った。そして、第20集まで来たところで、フクベエではないとキリコとカンナが断言している男が、僕こそが20世紀少年だと何だか威張っている。このあたり、どうも混乱している感じで私は落ち着かない。


 フクベエのことから考えよう。VDやカセットがケンヂの目にとまったのは偶然であるはずがない。1997年のフクベエの寝室は借り物であった。本人が意識して持ち込んだCDを、わざわざ置いておかなければああいうことにはなるまい。血の大みそかも然り。トラックの運転はずっとマルオの担当であり、フクベエは意図的に運転席にカセットを置いておいたに違いない。どうも、ケンヂに放送室のことを思い出させようという魂胆が透けて見える。

 しかし、フクベエ自身はこの曲が流れている教室内などに描かれてはいないようで、そもそも同じ中学かどうかも、中学生のときどんな生徒だったのかも全く描かれていない。仮にこのとき彼がこの曲を聴いたとしても、どんな感想を抱いたかどうか読者には手がかりがない。にもかかわらず「それが言いたくて、あいつは」風に、ここでもケンヂに遠回しのメッセージを伝えているのはなぜか。


 現時点の私には平凡な解釈しかできない。血の大みそかを招いた発端は、フクベエにとってはケンヂが主導して書いた「よげんの書」であり、ただしそれだけではなく、フクベエにはキリコが推測しているように同い年くらいの共同経営者のような存在がいて、そちらの人物は「20世紀少年」の曲およびケンヂとの間で、何らかの深い因縁話がありそうだ。忍者ハットリくんのお面とこの曲はセットなのだ。いや、あの目玉マークも含めて全部がヒントになっている。

 カンナに対し「僕こそがトゥエンティースセンチュリーボーイだ」と可愛げもなく名乗る”ともだち”の態度も、僕が誰だかケンヂが知っているという思わせぶりな答え方も、過去にこの二人だけの間に特別な何かあったと思えば、一応、では先を読もうかという気になる。すでに20世紀において同じ顔の”ともだち”が複数いたとしたら、同窓会に出たのはどっちだなどと、答えの出ない悩みに陥るので止めておこう。第20集に戻ります。円盤と双子という異色の取り合わせ。



(この稿おわり)



市ヶ谷駅前の交番に咲く桜。すぐ前に靖国通り
巨大ロボットは、この交番の前を通過したはずだ。
(2013年3月21日撮影)
































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