おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

Daydream Believer (20世紀少年 第796回)

 今日は夢の話なので、子供のころテレビで聴いて好きになった曲名をタイトルにいたしました。毎週モンキーズが主演するドタバタ劇を田舎町の民法が放映していたのだ。小学校低学年のころ。後年、清志郎が朗らかにカバーして、いまでも時々耳にする。

 夢については二年ほど前に話題にしました。ちょっと追記。心理学を勉強し始めて以降、あまり人と夢の話をしないようにしている。何かとんでもない泥沼に足を踏み込んでしまいそうな気がするのだ。たぶんフロイトの不勉強で、あらぬ誤解から悪影響を受けているのだと思う。


 起きた直後に覚えている夢も、間もなくすぐに全部忘れてしまうのは不思議なことだ。これに対抗すべく吉行淳之介は、目覚めたらすぐに夢の内容を喋ってテープに録音するという作戦を試みた。しばらく実際にやったらしい。

 記憶では、彼はなぜか夢の中身を書き残してはおらず、ただ単に寝起きの自分の声は間延びしているなどという感想にだけ触れている。ユングの研究者だった河合隼雄さんによれば、起きた後で夢を分析するという日々を送っていると、段々と鮮明に且つ長く夢の中の出来事を覚えていられるようになったそうだ。


 その河合先生も自ら見た夢の内容は書いていないように思う。分かる。奇想天外で支離滅裂ということもあるが、少なくとも別の事情が私にはある。夢の中の自分は、現実の自分と異なる。

 若かったり子供だったりすることもあるが、この程度なら問題ない。だが不気味なのは、往々にして夢の自分が実際の自分と比べると、言動も胸の内で考えていることも醜悪だということだ。正確には起きた直後に、そういう印象がよく残る。


 これは具体的には人に話せないことである。心理学者がいうように無意識や精神の状態が夢となって現れ出でるとしたら、私の潜在意識は上記のように泥沼状態かもしれない。でも、もしかしたら醜いと感じている夢の中の自分の方が、他者にとっては現実の私よりも好ましい人柄かもしれない。それはそれで悔しい。努力のし甲斐がありません。

 おそらく似たような事情により、人は将来の夢こそよく語るが、夜中の夢のほうは余り語らない。漱石や黒澤のようにフィクションの形をとらないと容易にできないようだ。一つだけ多分まちがいなく、メンタル不調のときは夢見が悪い。心の疲れのバロメーターになると思う。野生動物は夢を見るのかなあ。アンドロイドは電気羊の夢を見るか。電気羊はアンドロイドの夢を見るか。謎は尽きない。


 公園で自分を無視して会話に夢中のフクベエと山根に対し、「ねえ」と言って無理やり注意を自分に向けさせたナショナル・キッドの少年は、「僕、夢を見たんだ」と一方的に語り始めた。彼の胸ポケットには将来、”ともだち”兼世界大統領となって、死ぬ直前まで襟元につけていたのと同様のバッヂが飾られている。

 だからサダキヨではなくて、カツマタ君だ。これに対する山根の反応がなかなか鋭い。「あ、そう」と一言のもとに切って捨てて、フクベエとのお喋りに戻った。


 私はいま訳あって発達障害に関する本を読んでいるのだが、この公園の会話でも「しんよげんの書」の執筆過程においても、カツマタ君の他人の気持ちを全く読めず、それを悪いとも思わず好き勝手に発言し行動するという、大人になっても変わらない彼の人格には、やや病的なものを感じる。

 これらのシーンは時間的には、ババの店の前で遭遇した事件の前のことである。それ以前からすでに彼は風変りな子だったのだ。そしてわが身を襲った奇禍を、すべてケンヂの責任とした。やっぱり一度、お医者さんに相談すればよかったのだ。当時の医学ではお手上げだったろうが。


 山根は”ともだち”の計画を知りたがるのだが、カツマタ君は強硬であり、再び目の前の会話に割って入った。しかも、いきなり主題から始まり、「君達、二人が出てきたんだ」と夢のストーリーを語り出す。「学校の教室に二人がいてさ、君が」と先ず山根を指さし、「君を」と次にフクベエを指さし、「殺しちゃうんだ」という双子の兄弟を「君」と呼ぶか?。

 その態度、話の中身ともに無礼千万、傲岸不遜である。彼の夢ときたら、こちらは殺人、後でもう一つ語るのは爆弾。物騒このうえない。当然、顔に指さされて犯人と被害者にされた山根とフクベエは気分を害し、特に人殺し扱いされた山根は「何ふざけたこと言ってんだ」と立ち上がって怒っている。むべなるかな。


 しかし、その次の「おまえ、いつからそんな口きけるようになったんだ」というのは、日ごろのイジメの態度が出た。パワー・ハラスメントを行う上司は、しばしば彼自身の上司との折り合いが付いていないことがあると聞く。下に向かって鬱憤を晴らす、そんな傾向がここでの山根にも伺える。

 フクベエはせっかく自慢話の語り手として陶酔していたのに、邪魔が入ってすっかり興ざめ。歩き出して理科の実験しようと山根を誘う。山根が賛成して二人は去り、自業自得だとは思うが少年は一人で取り残されてしまった。


 さて、彼が語った夢について、その筋が彷彿させるのは2015年元日の夜に理科室で開催された「ひみつかいぎ」での出来事である。カツマタ君がこの会議に招集されていたかどうかは不明だが、少なくとも当日は不参加だったようで、その代り落合君と角田氏が闖入し、期せずしてカツマタ君の予知夢の結果を見届けることになった。

 もっとも、正確を期すと公園で語られた全情報のみに頼れば、夢は「大人になってから」と語られてはおらず、普通に読めば「君」と呼ばれている少年二人が夢に出てきたという語り口になっている。子供時代の理科室というと、この翌年の「死んで生き返る実験」も主要登場人物が共通しているが、こちらは殺しに至った形跡はない。

 やはり、ひみつかいぎの預言であろう。カツマタ君は自らの死に際のほかにも、友達の死に方まで預言するという不思議な予知能力者だったらしい。公園に一人とり残された少年は、もう一つの夢について独白を始める。


 つけたしです。カツマタ君は「教室で」と語っており、「理科室で」とは言っていない。私の印象では教室と理科室は違う種類の部屋なのだが、このくらいは誤差の範囲内か。実際、私が入学当時の小学校には理科室が二つもあった。

 当時の日本経済は重化学工業至上主義であり、理科の実験は重要な人材育成の現場だった。ただし後に児童数が増えすぎて第二理科室を取りやめ、実験台が並ぶ広いその部屋は、5年生のときの我がクラスの教室になった。


 さて、第2集に初登場する神様が見た予知夢は、2000年12月31日に世界が滅亡するという恐るべきものであったが、これも誤差の範囲内で絶滅は免れ大勢が助かっている。超能力者と全知全能とでは違うのである。

 ある意味では、一番「よく当てた」のはケンヂ主幹の元祖「よげんの書」である。”ともだち”の作為があったから当たり前というのは預言の本質的な問題ではない。そういう悪いことをする奴が登場するということまで含まれた「よげん」だったのだから、不本意にも的中したといったところだろう。





(この稿おわり)







マリンゴールドとサルビア
いずれも小学校の理科の宿題で、鉢植えにして育てました。
(2013年9月14日、横網町公園にて撮影)






 You once thought of me
 as a white knight on his steed.


 かつての君は僕が
 白の騎士だと思っていた

           「デイ・ドリーム・ビリーバー」  ザ・モンキーズ











































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