おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

マネのマネ (20世紀少年 第823回)

 マネのマネは上巻第6章のタイトル名にもなっている。140ページ目、万丈目はカレーを一口も食べていない。すきっ腹にウィスキーはいけない。ケンヂは全部平らげてお皿をテーブルに置き、これまでの経緯を整理している。

 すなわち、元々「よげんの書」は俺が書いた。フクベエがそれをマネして「しんよげんの書」を書いた。そのフクベエのマネをした奴が「反陽子ばくだん」とか言い出した。これを聞きながら万丈目は「マネのマネか」とキーワードを思い出しつつ、グラスの水割りをあおり「おい、もう一杯」とお姉さんに怒鳴っている。

 ケンヂはのんびりと、もう飲み過ぎだとたしなめている。まだ一杯飲んだだけだが、酒量の問題ではなくて万丈目が見るからに悪酔いしているからだ。今日は死ぬまで飲むと万丈目。だからもう死んでんだってとだけ言ってケンヂは放置した。


 ヴァーチャル・アトラクションの夜が明けた。万丈目は「死ぬー」と言いながら電信柱の前で戻している。親切に背中をさすっているケンヂに向かって、万丈目は先ほどの「マネのマネ」という言葉を繰り返した。昔ここいらでガキの一人に、マネのマネが世界をとるという話をしたのを思い出したのだ。

 そのガキはこう言っていたのだという。「マネのマネなら、ケンヂのまねのフクベエのまね...」。万丈目の記憶の中で、少年はナショナルキッドのお面をかぶっている。世界をとるつもりなのか。妙に落ち着いていて馴れ馴れしい子供であった。


 宇宙食の場合、インドのカーン博士はカレー味を加えたことにより、アメリカの食卓を支配したのだった。この少年の場合、”あいつら”すなわちケンヂやフクベエらは「細菌兵器」などと言っているのだが、少年は「僕だったら、反陽子ばくだんしかけるね」と自慢気に述べた。

 更に「仕掛けるところは決まりだ」と、もう計画も立案済みのような口調で語っている。その仕掛け場所について、ナショナルキッドは「ばんぱくばんざい。ばんぱくばんざい」と「しんよげんの書」を引用している。


 さて、サダキヨは秘密基地の中でフクベエに「よげんの書」を見せてもらっているが、私の記憶する限り子供のころのサダキヨが「しんよげんの書」の執筆に関与したという確証はない。第21集に出てきたナショナルキッドは、まず「しんよげんの書」に火星移住計画の発表を書き込んだ。

 しかしフクベエに破り捨てられている。服部・山根の当初計画によれば世界大統領は無敵になるのであって、火星に逃げ出しては都合が悪かったのだろう。次に山根が「あいつ」と呼ぶ少年はまた何か「しんよげんの書」の最終ページに書いたのだが、これはフクベエに無視されて終わっている。


 それが国連プロファイラーからケンヂが見せてもらった「反陽子ばくだんで世界はほろびるだろう」であり、後に書いた本人が自分で読みながら「今日がその日だ」と言った箇所だろう。反陽子ばくだんは、公園でキリコとサダキヨが会った日、すでにこの少年が夢の中で大人の僕に言われて知っている。

 そのとき彼はすでに円盤と巨大ロボットの衝突や、ばんぱくばんざいのことも知っていた。それらを嬉しそうに語っている。サダキヨらしくない。

 それに宇宙特捜隊のバッヂを付けて独り言をいっているのだから、公園のシーンからしてもサダキヨではない。そしてこの独演会はジジババのババにバッヂを取り上げられる前であった。前にも述べたが反陽子ばくだん構想は、彼が悲劇に襲われる前に出来上がっている。


 人生最後の日、”ともだち”はリモコンの調子がおかしくならなければ、巨大ロボットに常盤荘ごとカンナを踏み潰させていたかもしれない。カンナがそこにいたのは偶然であるが、もし万博会場にとどまっていたら、結局は円盤がまき散らすであろうウィルスの犠牲になったのか? 

 でも予言では最後はどっちみち反陽子ばくだんで世界は滅びるのだから、その準備(あるいは、その準備のマネっこ)はしていただろう。死なばもろともの心境にあって、彼はケンヂを「悪の大魔王」呼ばわりをした。ノストラダムス「恐怖の大王」のマネか。


 言われた方のケンヂは後々まで、これにいたく衝撃を受けている。しかし、バッヂの万引だけで何十年も経ってから悪の大魔王扱いというのは、やや大げさすぎないか。

 確かにケンヂの万引きでババが犯人探しを始め、彼がその犠牲になったという点で因果関係はあるとしても、ケンヂはそれを意図してバッヂを持ち去ったのではない。その時点では単なるコソ泥である。

 問題はババにとっ捕まってフクベエらにイジメられたとき、ケンヂが名乗り出ていれば展開は違っていたという点なのだが、これは確かに怨念が残る出来事であるとしても、繰り返し申し上げれば反陽子ばくだんの予言は、この日すでに少年の脳裏にあったのだ。

 
 つまりケンヂ憎さで考え出した世界滅亡計画ではなく、すにで夢で見たものだった。このひと夏の出来事を時系列でどう整理したらよいのだろう。「(1)夢の中の大人の僕に反陽子ばくだんの話を聞いた」。これが「(2)公園で反陽子ばくだんの予言をした」よりも先であるのは間違いがない。

 では「(3)万丈目との間でマネのマネの話題が出たときに反陽子ばくだんの計画を話して聞かせた」、また「(4)しんよげんの書に反陽子ばくだんの予言を書き入れた」という二件は、(1)より後だろうが、(2)の前なのか後なのか。


 以下は現時点での考えです。(3)は白昼堂々の下校途中の出来事である。ババにお面を剥がされて、ひどいイジメの対象になって以降の少年の言動とは思えない。そして、(2)の直後にババに捕まっているはずなので、順番は(1)→(3)→(2)→ジジババ事件ではないか。

 では(4)はいつか。漫画に描かれたのは(4)が一番先なのだが、(2)と(3)との前後関係がはっきりしない。もしも(4)が最後で、もはや夜の理科室とフクベエの部屋ぐらいしか立ち入りができなくなっていたカツマタ君が「しんよげんの書」に確たる記録を残そうとしたと仮定してみる。

 それをフクベエにスケッチブックごと放り出されたのを彼の家の玄関先で垣間見たカツマタ君が、さらに目の前の道をジジババの店にアイス食いに行こうぜと叫びながら駆け抜けていくケンヂの姿を見たのだとしたら、心中穏やかでいられるはずがない。


 結論を急いでも仕方がないな。結論、出ないかもしれないし。もう一度ここで整理しておきたいのは、ケンヂがバッヂを持ち去った際、その走って逃げる後ろ姿を見たのはマルオで、声をかけられたからケンヂもそれを知っている。だが、もう一人、ナショナルキッドの少年も、ケンヂの悪さを見ていたに違いない。

 そうでなければ、ケンヂを悪の大魔王に特定できない。ケンヂは彼に見られたことを知らなかっただろうが、どこかの段階でそうと知ったらしい。これも経緯が良く分からない。今日も切れ味が悪い終わり方をするなあ...。




(この稿おわり)





築地本願寺にて (2013年12月6日撮影)





うちの田舎で富士山を撮影すると、電柱や電線がむやみに写る。
(2013年12月29日撮影)





おまけ。マネの絵。



 「アンリ・ロシュフォールの逃亡」  エドゥアール・マネ 
  (2006年9月 オルセー美術館展にて)