おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

僕の才能 (20世紀少年 第735回)

 前回に引き続き、次の三つの発言の内容を検討します。今回のメイン・テーマは「僕の才能」。
1) 世界はずっと僕の才能を認めなかった。
2) 僕は必要だけど、世界は必要じゃない。
3) ”よげん”なんてウソだよ。全部、僕がやったことだ。

 3)で”よげん”が嘘だったと言っているのだから、1)で威張っている「僕の才能」が、予言の能力ではないことは明らかである。これはこれで正直で宜しい。ただし、私の理解では彼は実際には神様的な予知能力があるのだが、それはごく少数の人を相手にしか発揮されておらず、ずっと世界が認めなかったと拗ねるのは筋違いである。この能力ではないだろう。たぶん。


 では何か。材料が少なすぎるが、ここでの彼の言い分から推測するしかあるまい。彼が自慢げに語ったことは二つ。一つは3)の「全部、僕がやったことだ」。もう一つはこの次のページで宣言する「僕は一週間この世界を終わりにします」。ただし、後者は「今に見てろ」であり、要は「復讐」だろうが、何にせよこれから見せる予定の「能力」に関し、ずっと認めなかったも何もないだろう。

 かくて、1)において現在完了形で「認めなかった」と言っているのは、3)の「僕がやったこと」ということになる。繰り返しになるが、ワクチンを配ったことなら、例えば国連に認められて英雄と称賛され、世界大統領と呼んでもらっている。また、復活して法王を守ったことにより法王の祝福を得ている(のちに人知れず撤回されているが)のだから、これらを恨むのは変だ。では何だ。ほかの業績か? それとも上記の件で国連や教会の人事評価に不満でもあるのか。


 別にほめるつもりもないが、フクベエにはそれなりの才覚と実績がある。「しんよげんの書」の執筆を主導したのは彼、山根にウィルスの研究をさせたのも彼、キリコを口説いて仲間に引きずり込んだのも彼、お面を使うサークル活動を企画して万丈目に興行をさせたのも彼であることを読者は知っている。ここまでカツマタ君の影は見えない。

 1997年以降、「よげんの書」が実現され始めて以降は話が大きくなってきて、カツマタ君はどこかで何等かの貢献をしているのかもしれないが、フクベエとの役割分担など一切、描かれていない。山根はウィルスを作り、キリコはワクチンを開発し、サダキヨでさえ(失礼)館長をしているのに、万丈目も高須も敷島教授の娘も一切、”ともだち”が複数いたことなど気づかなかったのだ。カンナも影武者とはよく言ったもので、本当に影に隠れたままだ。


 したがって、どこからどこまでが彼の才能や実績かと悩んでも答は出ない。しかし彼にとって致命的なのは、敵味方を問わず「よげんの書」と「しんよげんの書」の存在を知る者はみな、すべてがフクベエのペースで進んでいると考えて疑わない。「防毒マスクのセールスマン」も「世界大統領」も「万博はんざい」も、すでに主人公は入れ替わっているのに、物事はフクベエが敷いたレールの上を走り続けている。

 世界大統領はフクベエの造語だろうし、キリスト教好きもフクベエの嗜好だ。カツマタ君がようやく個性を発揮したのは、「しんよげんの書」から削除された火星移住計画の発表で、フクベエが世界大統領なら自分は銀河系大統領にでもなりたかったのかもしれないが、いかんせん計画発表だけで現実に火星には行けない。自作自演すらできない。すでにオッチョのいう「暴走の果て」まで来てしまったのだ。そして放送室で「崩壊」した。


 フクベエが死んで、”ともだち”が復活した方法ばかりは、彼が考え出したものであるらしい。だが、イエス・キリストのマネをした副作用も大きくて、以前と変わらぬ”ともだち”を演じ続ける必要がある以上、フクベエ時代の「功績」はすべて”ともだち”のものであり続ける一方だから、いつまでたってもフクベエ色を拭えない。「全部僕がやったことだ」と言っても、世界は”ともだち”が自作自演をしたと知り得たのみで、カツマタ君個人など眼中にない。

 あれはフクベエで僕はカツマタだとも言えない。ヤマさんが後に語るように、多くの人は「すり替わった」だけのニセモノと感じるのみだろう。そうなったら多くの部下も万丈目と同じように離反して、受胎に成功した高須ら一部を除き、ともだち府からみんな13番のように逃げてしまう。”よげん”を否定しフクベエを否定したつもりになっても、最後までフクベエの作った虚像である”ともだち”であり続けないと、最後にやりたいことすら出来なくなってしまう。袋小路である。


 なお、このあと示すつもりの「能力」については、先ほど「ずっと認めなかったも何もない」と排除したが、カツマタ君は彼なりに最終兵器の広告宣伝をしている。それは万博会場に在る。振り返ってみれば、彼は大阪万博をそのまま復元しようとしたフクベエの企図を、いろんな形で捻じ曲げては強調しているし、人々の注意を万博に向けようとする努力を惜しまない。

 まずは復活の場所に選んだ。そしてすでにケンヂが憤慨したように、いつまでたっても開催する万博にした。太陽の塔の顔は、フクベエ時代は岡本太郎だったが、カツマタ君の好きな(敵に渡すな大事なリモコン♪を覚えている)鉄人28号風に変えた。文明が滅んでもあれだけは残るとカンナに嘘をついた。回り灯籠や人形を仕掛けている。円盤も会場だけはペンキで塗るのを避けた。フクベエやケンヂが夢見た未来都市は、過去都市に塗り替えられた...。でも誰も気付いてくれない。


 これで本件に関する私の話題は尽きました。最後は少し穏やかに終わりたいものだが...。1997年のクラス会に出席したフクベエ、2000年に地下のケンヂに合流したフクベエは、本当にフクベエだったのだろうかと考えたことがある。今も考えている。当時すでにカツマタ君が同じ顔だったとしたら、二人の区別がつくのはキリコとカンナの直観だけだ。

 しかし当時キリコは行方不明だったし、幼いカンナは何の反応も示していない。もしも二人の力関係が少年時代のままフクベエ優位でここまでいているとすれば(私はそう感じる)、仮に私がフクベエならば危ない仕事は影武者にやらせるだろう。

 でもその替わり、一緒に遊ぶ機会も失ってしまうんだよな。地下水道でフクベエはケンヂに、仲間に入れてくれてありがとうと感謝していたものだった。これは何となく本音に聞こえるが、どちらのセリフとしてふさわしいか。よくわからない。



(この稿おわり)





谷中にて。屋根瓦の土塀。(2013年5月19日撮影)



































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