おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

整形か? (20世紀少年第786回)

 さて、「21世紀少年」上巻の冒頭で”ともだち”にお迎えが来るシーン。同じ顔。とうとう名案の一つも思い浮かぶこともなく、この場面に来てしまった。避けて通れる話題でもなし。今でも時折、マンガ「20世紀少年」を酷評するネットの書き込みを見かけるが、その多くはここから先が未消化で終わるのが余ほど気に障ったに違いないと思う。

 ちゃんとした結末を迎える漫画やミステリばかり読んでいると、そういうことになりかねない。例えば、このブログで繰り返し言及してきた司馬遼太郎黒澤明手塚治虫の作品は、散らかったまま終わるものや後味が良くない終わり方をするものが少なくない。私は彼らに小さいころから彼らに散々振り回されているので、さすがに何でも平気だぞとは言えないけれど、こういうものだってあるかというくらいの受け止め方はできる。


 ちなみに、私は国民栄誉賞というものに殆ど興味がない。念のため、受賞者にケチをつけるつもりは全くありません。錚々たるメンバーである。でも手塚治虫司馬遼太郎が無視されているから評価しない。繰り返すけれど、この賞の人選も含め、子供と外国人に何故?と訊かれて説明できないものは、ろくなものではないと信じている。

 司馬さんも手塚マンガも、現代文明や国家権力に対する辛辣な批判者だった。支配者は彼らが嫌いなのだろう。でも彼らは国民から尊敬され愛読されたぞ。政府栄誉賞に名を変えたらどうか。同じ意味で村上春樹も難しい。ノーベル賞もらったら、政府も慌ててマネするかもしれないけれど。


 ケンヂがマスクを外した下の顔を見て、マルオは「フクベエ...」と信じられないという様子を見せた。ケンヂが最後にフクベエの顔を見てから18年ほど経っているはずだが、マルオは3年くらい前に、春さんが描いたともだちの似顔絵を見ている。それに、オッチョがフクベエの死に顔を確認した直後に、その証言を聞いているのだ。聞いていたのに動転したのは、こんなところで幼馴染が鼻血を出しているのを見たからか。

 もっともその後、オッチョとユキジはフクベエと同じ顔の男を見てしまっており、その後は話が混乱したままになっている。その当日はまさに「夜目、遠目、傘の内」状態で視界が悪かったのだが、高須と敷島娘の証言もあるので、読者は疑うことができない。私は死んだ人間が間をおいて生き返るなどという話は全く信じないので、フクベエとそっくり同じ顔の男が少なくともあと一人いたとしか考えられない。


 そのうち一人は至近距離から山根に拳銃で胸を撃ち抜かれて死んだ。オッチョが心拍の停止を確認している。ここで一々繰り返さないが、敵味方の両方から出ている多くの証言から、山根に射殺された方がフクベエ。以上、おさらい終わり。

 一旦、フクベエとつぶやいたマルオだったが、いや、そんなはずはないと、自ら打ち消した。オッチョの判断に狂いがあり得ようか。そこで、マルオは一つの仮説を示した。「整形か?」と彼は訊いた。相手は応えない。


 そっくりな外見の大人が二名いるとしたら、どのような事態が考えられるか。この議論は確か二年ほど前に、一度やりました。(1)双子(年の近い兄弟も含めるか)、(2)整形手術、(3)他人の空似。このうち、他人の空似は全く面白味がない。物語に何ら深みを与えない。他人の空似説は私でなくても、誰一人採用するまい。ということで却下。

 では、いよいよ「双子」対「整形」の直接対決だ。私の現時点での結論は、双子とは思えないという薄弱な消去法により、整形を選ぶ。如何にも平凡だが、平凡さはともだちの特性でもある。だから、あらゆる機会に目立ちたがった。長くなってきたので、続きは次回にて。



(この稿おわり)




日本海 (2013年7月8日撮影)







隠岐にはまだこのような自動販売機があるのだ。 (2013年7月9日撮影)








































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