おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ケロヨンの記憶 (20世紀少年 第725回)

 「過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる。」という自己啓発セミナーのうたい文句のようなフレーズで検索すると無数のサイトが出てくる。その多くに精神科医エリック・バーンの言葉と書いてある。私は産業カウンセラーという資格を持っていて、わずかではあるがカウンセリングの仕事もいただいている。その勉強の過程でエリック・バーンが開発した「交流分析」を知ったのだが、この言葉はどこかでかすかに聞いた覚えしかない。

 しかも私は学者でも医師でもないが、日本交流分析学会の正会員で、ずいぶん勉強したし講演を聴き本を読み、初級ながら国際レベルの研修も修了しているが、そのどれにおいても、この言葉が出てきた記憶がない。

 仮にバーン博士が著作なり講義なりでこの文章を使っていたとしても、心理学や心理療法のごく一部だけ切り出して使うのは慎重を期すべきである。この言葉を知っていた友人に、どこで聞いたかと尋ねたところ誰もが知っているであろう大手の人材紹介会社が使っていたと思うとの返事であった。


 これを聞いて元気になる人はいいが、例えば津波原発に故郷を追われ、仮設住宅等で人間関係に悩んでいる人たちに向かって、「過去と他人は変えられない」と言うか? そもそも言葉の中身が全て間違っている。これを私なりに正確を期して言い換えれば、過去も他人も未来も自分も、そう簡単に思う通りには変わらないが、まだしも未来と自分のほうが変えやすいかもしれないという程度問題である。

 私が何年か前に描いていた未来の自分は、確かに当時の自分と違っているが、必ずしも変えたくて変えたようにはなっておらず、少なくとも経済的・健康的には思った以上に悪くなった。その程度でへこたれたりするほど繊細に生まれなくて親には大感謝だ。以前、未来という時間はないと身もフタもないようなことを書いたが、未来が来てくれたとて望んだ形でお越しになるとは限らない。


 他人も変えられる。お勧めしないが人相が変わるほどぶん殴ってみれば分かる。われわれの辛さや心の痛みが過去や他人に関わっていることが多いのは確かだろうが、正確には他人存在そのものというよりも、他人と自分との人間関係(あるいは関係の無さ)が重いのであり、また、過去の出来事そのものでもなく、その過去に自ら与えている意味に苦しんでいるのだ。他人と自分との人間関係は悪いほうに変えたければ簡単にできるし、地道に努力すれば改善も可能である。

 「過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる。」というのは、立ち直れそうな人に対してタイミングよく言葉を掛ければ有効なときもあるだろう。過ぎたことは忘れよう、そろそろこれからのことを考えよう。もしバーンズさんが言っていたとしたら、きっとそういう文脈の中でのことだと思う。全人類を常に救う万能スローガンではない。


 過去の出来事に自分が与えていた意味が変わることは、私たちが日常経験していることである。歴史的事実は不変であっても、私にとっての私の過去は日々、変わっている(特に、物忘れや勘違いという得意技により)。これこそが若者の成長や幸せな老後の源泉と言ってよかろう。このままでは、マルオは秘密基地破壊者という十字架を背負って生きていくところだった。ケロヨンが過去を変えてくれたのだ。そして恩返しの機会も来た。

 ケロヨンの記憶は「俺って昔からああだった。真っ先に逃げた。最低だな俺、ガキのころから。」と悲痛である。彼は血の大みそかでの失態を今も悔いているのだ。ケロヨンの記憶によればヤン坊マー坊の襲撃に遭ったとき、親父のエロ本を握りしめて商店街の近くまで走って逃げた。エロ本にアケミとは、確かに優先事項の品位が今一つだな。しかし、マルオは草原の基地跡でヤン坊マー坊に「やめろ!」と怒鳴っていたケロヨンを覚えていた。


 前回、マルオがヤン坊マー坊に投げられたのだという話をケロヨンが話してきかせたのは、このタイミングである。マルオは「じゃあ何でおまえ、それを知ってるんだ?」という説得力抜群の反論をしてケロヨンの記憶を呼び覚ました。あのあと平凡パンチの持ち出しが露見して、親父にこっぴどく叱られたのであった。かくて二人はお互いの過去を変えたのだ。
 
 あのときの「エロ本」が平凡パンチであったという厳粛な歴史的事実も今や意味を変えていて、「かわいいもんだよな」と二人は笑っている。書類を抱えて登場したエプロン姿のキリコは、「何、笑っているの?」と久しぶりのさわやかな表情を見せている。教えてやればいいのに、二人は笑ってごまかしている。息子の修一君はカエル帝国の旗を降ろしてから、次に別の旗を掲揚すべくご尊父の命を受けている。

 
 その旗をみてキリコは「これは...」とある種の感慨を顔に浮かべた。「どうだい」とケロヨン、「いいねえ」とマルオ。「元々は俺たちのものだった。さあ、いくか壁の向こうの東京へ。」とケロヨンは言った。マルオが頷く。旗印はオッチョの目玉と週刊少年サンデーの左手。「このマークを取り戻すんだ」と宣戦布告したのもケロヨンだろう。

 次のページは再び1969年の原っぱ。草陰からヨシツネ少年がイタチの子のように顔を出すシーンから始まる。ケガをしていないところをみると、戦わずにさっさと隠れたらしい。一緒にいたはずのコンチがいない。かくれんぼの名手だからな。ヨシツネは仲間が二人、傷だらけで泣いているのを見た。投げ飛ばされたマルオと、戻ってきて倒されたケロヨンであった。第10話「その旗をあげろ」は、ともだち歴3年のゲンジ一派の基地から始まる。




(この稿おわり)




カスミガセキ 「ビルの街にガオー」@パパイヤ天国 (2013年5月10日撮影)







































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