おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

目玉男 (20世紀少年 第697回)

 第21集あたりまでは、無辜の民草が銃殺されたり殺し合ったりと読むのもつらい場面が多かったのだが、この第21集でようやく”ともだち歴”時代の悲惨さも描き尽くされたようで残虐なシーンが減り、代わって万博や少年時代やヴァーチャル・アトラクションの場面が増えてくる。作者の熱い思いが伝わってくるような。私もあれこれ脱線し甲斐がある話題が待っています。

 第4話の題名「あーそびーましょ」は、まさにこの長編漫画のメイン・テーマみたいなもので、最初に出てきたのは「ともだちコンサート」の会場から放り出されたケンヂが突然思い出した忍者ハットリ君のお面の少年が言っていた「ケンヂくん、遊ぼうよ。遊ぼうよ、ケンヂ君」という比較的まとなお誘いの言葉だったが、悪夢が始まるのは第4集の終わりにケンヂとオッチョがカスミガセキの地下で聞いた「あーそーびーまーしょ!」であった。


 映画では「ケーンヂくん。あーそびましょー」と聞こえる。これが正しい。いやその、同じ時代に少年だった私がいたころの静岡市では、あの映画のイントネーションどおりだったので、びっくりしたのです。

 もっとも、こうして敬語を使うのは親がこちらを知らないような級友の家などに行くときであって、勝手知ったる近所では単に「○○君。あそぼ。」であった。初めてのボーナス・ステージで、コイズミのスカートの裾を引っ張った忍者ハットリ君が誘ったときのように。今でも玄関先で私を呼ぶ近所のガキ連の声が耳に残っている。

 ちなみに、呼び出しの用事が遊びではないときは名前だけ呼ぶというのも「20世紀少年」と同じで、例えばヨシツネが夏休みの宿題をオッチョに教わりに行ったときのように「落合くん」と呼ぶ。絶対とは言い切れないが、これはオッチョに男の兄弟がいないことも示している。同じように、サダキヨに「ハットリくん」と呼ばれていたフクベエにも兄弟はおるまい。


 第4話の冒頭シーンは、かつて万博会場の開会式典において、オッチョが蝶野刑事からトランシーバーで現場報告を受けていた様子を絵にしたものだ。太陽の塔はなぜか施錠されておらず、入り口が開いていた。13番が開けたのだろう。中は真っ暗で、しかし何かを発見した刑事は「何だ、これは」と驚いた。ここでは、わずかに人影のようなものが見えるだけだが、続きは後にまた出てくるので、その時に考えよう。

 ここまで実は将平君の夢で、彼は神様同様、悪夢にうなされて飛び起きている。ただし、これは予知夢ではなくて、いわば記憶夢であるが、とはいえやはり嫌な感じで余韻を引くことになる。将平君は例のスリーナインの格好をしたままだ。ケンヂは東京に戻って伝説のライ魚と決着をつけると語っていたが、将平君にも決着をつけるべき相手がいるのだ。祖父の変死の重要参考人


 ところで、本物の大阪万博のシンボル・タワー「太陽の塔」は諸資料によると開催中は塔や内部も展示場になっていたらしいが、今は空洞でしかも立ち入り禁止らしい。前にも書いたような記憶があるが、私が持っている1970年の年表によると、同年4月26日の欄に「太陽の塔の目の部分に反博(ハンパク)を主張する男が登り籠城、『目玉男』と呼ばれた(5月3日逮捕)」とある。ゴールデン・ウィークの最中だから、ずいぶん人目を引いたことだろう。43年前か。

 目玉男とくれば鬼太郎の父、目玉おやじが第一人者だが、他にも唐傘お化けとか一つ目小僧とか、目が一つの妖怪はどことなく愛嬌があるのが不思議である。そのイメージを一気に悪くしたのが、”ともだち”の目玉マスクであるが、これは作ったオッチョの責任ではない。こんな玩具を持て遊ぶ奴を信じるほうも信じるほうだ。それより信じがたいことがあって、この大阪万博の目玉男が今もって堂々と生きていなさるのを今年になって知った。


 正確に言うと、少なくとも文藝春秋の2013年2月号に載った記事の取材を受けたときは生きていて、記事によれば佐藤英夫氏、67歳とある。開催中に塔上からパビリオン群と一日数十万人も集まった観衆を見下ろしたという貴重な証言によれば、「地上から62メートルの『太陽の塔』目玉部分から眺めてみると、それらはどうにもグロテスクで、不調和極まりない風景だった」とケンヂが聞いたら激怒しそうな手厳しい批判である。

 もっとも佐藤さんは初めから万博に敵意を抱いていた。彼や仲間にとって「万博は打倒すべき帝国主義の象徴だった」という。70年安保と同じ年であった。佐藤さんの見解では、そもそも万国博覧会は英仏が植民地からの収奪品や奴隷を展覧する祭典として始まったらしい。日本も人のことは言えないそうで、1904年といえば日露戦争が始まった年、セントルイス万博においてアイヌ人9人をそのまま「出品した」と佐藤氏は怒る。


 とはいえ万博の施設はあまりに巨大で破壊するのは無理だなという相談になり、結局言いだしっぺの佐藤さんが「万博の象徴、太陽の塔を乗っ取る」ことになった。おそらく乗っ取りという言葉とアイデアは、大阪万博開幕後わずか半月後に起きた日本史上最悪の航空機ハイジャック、よど号事件から着想したものだと思う。ただし、よど号の犯人は赤軍派だが、佐藤さんたちはアナーキストであったらしい。

 佐藤実行犯は塔のらせん階段を登り、作業用の出入り口の鍵を鉄ノコで壊して侵入した。そして「万博粉砕」と叫び、ハンガー・ストライキに突入したのであった。「葉隠」の本を持ち込み、最初は決死であった。しかし、日没後は寒いし腹が減ってきた。この行動も見栄と虚栄心に過ぎなかったことも悟った。8日目159時間後とは、ずいぶん頑張ったものだが投降のやむなきに至った。

 
 さっそく威力業務妨害および建造物侵入で大阪府警に現行犯逮捕されている。しかし、塔でのストライキ中、警察は優しくて飲み水の差し入れなどしてくれたらしい。こんなところから飛び降りでもされたら困る。懐柔に必死だっただろう。佐藤さんは籠城中に抱いた自分や世界に対する無力感が忘れられず、当時を思い出すたび今もこみ上げる涙を禁じ得ないという。

 最後にこう語っている。「時代にはその時々の気運というものがあって、それに呑まれると他にどうにもできなくなってしまう。私もそんな時代の気運に呑まれたのだと思う」。ケンヂは東京を覆う気運と戦いに行くのだ。ともあれ、佐藤さんは無事刑期を勤め上げ、故郷も彼を暖かく迎えてくれたので店を開いて暮らした。なお、2年後に佐藤さんは連合赤軍の誘いを受けたそうで、断ったから良かったが参加したら「総括」か「あさま山荘」で酷い目に遭っただろう。


 警察の苦労を除けば、被害は出入り口の鍵だけだろうから、こうして笑い話のように書ける。しかし、ハンガー・ストライキというのは決して平和で安全なものではない。今ではテロリストというと一部のイスラム原理主義というイメージが強いが、私が子供の頃はPLOパレスチナ解放戦線)とIRAアイルランド共和軍)であった。PLO関連では故アラファト議長の死因究明が注目を集めている。

 IRAは一時期より静かにしている様子だが、かつては先日亡くなったサッチャー首相の暗殺まで企んだ強硬派であった。IRAが弱体化した一因というのを本か雑誌の特集で読んだことがある。イギリスはIRAのリーダー格を片っ端から逮捕して監獄に放り込んだ。IRAの大物たちは獄中でハンガー・ストライキを行い、死ぬまで行って、死に絶えた。それとくらべて日本で革命を叫んでいた連中の慣れの果ては「いちご白書をもう一度」に詳しい。



(この稿おわり)



前にも書いたようにジョン・レノンアイリッシュの血が流れており、ソロになってからアイルランドを支援する曲を発表しているほか、真偽のほどは明らかでないが、新聞にジョンがIRA献金していたという記事が載ったのを覚えている。彼は決して愛と平和の導師に徹していたわけではないのだが、それでもこんな曲も書いた。ジョン・レノン、26歳のときの作品。最高傑作であろう。
































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