おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

はじまり    (20世紀少年 第223回)

 このブログ開始早々に書いたように、「20世紀少年」は「本格科学冒険漫画」と銘打っているので(ただし、なぜか表紙カバーにそう書いてあるのは第17巻まで)、科学と冒険が主題であり、さらにミステリーとサイコ・サスペンスも加味されていると言ってよいかと思う。

 ミステリーとしてのメイン・テーマは、”ともだち”とは誰かであり、その最初の解決は第12巻、最後の解決は第22巻と「21世紀少年」に描かれる。もっとも、多くの読者は最後の解決に疑念や不満があるだろう。はっきりとは、誰だったのか分からないのだから。


 冒険物語としては、今ちょうどブログがそこに差し掛かっている第7巻あたりが、一つのピークになっている。すなわち、第6巻から第7巻にかけて描かれているショーグンの大脱走と、第7巻から第8巻にかけての「血の大みそか」の回想録。

 「科学」漫画とは、SFであると解釈しています。第7巻までは余りSF的なもの(現代の科学技術を超えるもの)は出てこないが、第8巻でバーチャル・リアリティーが登場して、それ以後、重要な役割を果たす。終盤には、二足歩行の巨大ロボット、空飛ぶ円盤、反陽子爆弾も出てくる。


 サイコ・サスペンス(心理劇)というのは私の勝手な見解に過ぎないが、”ともだち”が誰であるにしろ、この大犯罪の動機が通常のミステリーのような金銭や色恋といった浮世の沙汰とは違うようであるため、「誰なのか」だけでは不足であり、「なぜだったのか」も考えなくては読書を十分に楽しめないと思う。その「なぜ」の「はじまり」の一つは、以下の理由により第7巻に求めても良いのではないか。


 第22巻の第10話「正義のはじまり」は、ジジババの店に「あたり」の券を携えてきた少年が、ババ不在のため券を置いて、替りに宇宙特捜隊バッヂを持って行くシーンから始まる。その一部始終を電柱の陰で見詰めているケンヂ少年の姿を、中高年になったケンヂが回想しつつ、「あれが、もうひとつの始まりだった」と独り言を繰っている。

 「もうひとつの始まり」ということは、「はじまり」が二つあったと、ケンヂは考えているわけだ。それがタイトルどおり「正義のはじまり」かどうかは微妙なところだが、この場面の「もうひとつのはじまり」は、二人目の”ともだち”の悪行の始まり、あるいは、二人目の”ともだち”とケンヂの関わりの始まりと捉えて差し支えあるまい。


 そうであれば、もう一方の「はじまり」は、一人目の”ともだち”の「はじまり」ということになる。一人目の”ともだち”がフクベエであることは、あるいは二人目がフクベエでないことは、証人としてキリコ、万丈目、ヤマさん、カンナ、オッチョと大勢いるから間違いあるまい。

 では、フクベエの悪行の始まり、あるいは、フクベエとケンヂの関わりの始まりとは何だろう。ケンヂに問えば、多分、自分たちが、いや自分が「よげんの書」を書いたのが発端だと答えるだろう。確かに、遠因の一つではあるが、先の宇宙特捜隊バッヂほど決定的な出来事ではない。


 ケンヂたちが「よげんの書」を書き、フクベエなり私なりが読んだとして、自分ならこうは書かないと思って、「しんよげんの書」を書いてみるというのは、子供の世界、普通にありそうなことだ。しかし、私は血の大みそかの演出などしない。ここにフクベエの特殊性がある。

 換言すれば、「よげんの書」は必要条件(これがなければ、血の大みそかはなかった)と言えても、十分条件(これが書かれたので、血の大みそかに至る条件は整った)というものではない。法律用語でいう相当因果関係ではない。「風が吹けば桶屋が儲かる」程度のことだ。


 もっと決定的な要因があるはずです。その一つは、まだ先のことだが、万丈目にそそのかされたフクベエが、スプーン曲げでテレビ出演しようとしたもののインチキ扱いとなり、いじめられたのを恨み、地球征服と人類滅亡を誓ったという件だ。

 すなわち、第18巻第10話で万丈目が語る、少年Aの復讐宣言である。ただし、この件だけでは、ケンヂとの関わりが見えない。ケンヂは、こういうことで他人をいじめるような人間には思えないし、そういう証拠もない。この一件は、あくまでフクベエ側のみの事情だろう。


 この点、やはり第7巻から頻繁に、その話題が登場し始める大阪万博の影響は大きい。ユキジの意見を聴こう。第12巻第7話に、彼女とヨシツネが、1970年と1971年に何があったかを議論する場面が出てくる。

 二人の記憶によれば、1970年の大阪万博のとき、夏休み中ずっと大阪にいて万博を満喫した”万博組”があった。例えば、学級委員のグッチィや山根。一方で、ユキジもヨシツネも、オッチョやマルオも、二泊三日程度の旅行しかできなかった。

 また、ケンヂやドンキーのように、万博に行きたくても行けない子供もいた。夏休みが明ければ、私の小学校でもそうだったように、万博に長くいればいただけ自慢できるはずだった。


 ところが、8月下旬に起きた「首吊り坂の屋敷」の騒動で、ケンヂとオッチョが本物のオバケを見た(正確にいえば、そう二人が主張した)ため一躍スターとなり、それと引き換えに”万博組”は人気者になるチャンスを失った。ユキジの表現を借りれば、「男の子ってくだらないことで嫉妬するって思ったんだもん」という事態を招いた。

 「そうだっけ、僕は全然気づかなかった」とヨシツネは言う。だが、きっと彼も首吊り坂事件の話を大きくした一人であろう。ともあれ、ユキジの結語は非常に不気味である。「そしてあのとき、なんだかクラスの男子の様子が変った...」らしい。フクベエも変ったとしたら、どう変ったのだろう...。


 フクベエは、夏休みの日記を壮大に偽造してまで、”万博組”の仲間入りを目指したのだが、結果は散々であった。フクベエが秘密基地の少年たちほど、切実に万博に行きたかったのかどうか、私にはあまりその気持ちが伝わって来ない。案外、もしも関口先生に創作日記を音読してもらったならば、その過剰な自意識も満たされかもしれないな。

 それに、フクベエとケンヂの関わりは、万博絡みだけではないし、逆に、一躍スターになったのはケンヂだけではなくオッチョもいる。「遊びましょう」の相手に、「あのケンヂ」のみが選ばれた理由は、追い追い考えながら書き進めます。少なくとも、姉キリコの存在が大きかったことは間違いない。


 少なくとも、フクベエ本人が第12巻で死ぬまで、あるいはもしかして死んだ後も、20世紀少年の誰ひとりとして、フクベエが(勝手に)受けた心の傷には気付かなかった。こういうこと自体(凶悪犯罪は別にして)は、決して特殊な出来事ではなく、われわれの日常生活で普通に起きる。その点が、この作品の怖いところだ。

 第16巻に出てくるように、ケンヂたちはフクベエに対して、秘密基地の仲間に入れてやらず、挨拶もせずに帰り、万博の話題を奪った。もちろん、ケンヂ少年に責めはないが、血の大みそかのあとで、ケンヂは宇宙特捜隊バッヂ事件と同じような罪悪感を、フクベエに対しても抱いただろうか。


 多分、答えは否であろう。もしも抱いたなら、「21世紀少年」でバーチャル・アトラクションに入るとき、ケンヂは「決着」をつけに行ったはずだ。しかし、会いに行ったのはサダキヨであり、ジジババのババであり、カツマタ君であって、フクベエは一顧だにしていない。

 二人目の”ともだち”も含めて、フクベエに加担した悪人どもも、最期の最期には、ほんのわずかでも救いが与えられているのが、この物語の特徴である。だが、フクベエには、それすらない。遺体のありかさえ分からない。天罰である。
 


(この稿おわり)


雪の画家モネ、「雪のアルジャントゥイユ」