おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

火星年代記 (20世紀少年 第696回)

 第21集あたりから火星移住計画が話題になり始めているので、ちょっくら脱線してレイ・ブラッドベリの話でもしたくなりました。手元の文庫本「華氏四五一度」のあとがきによると、彼は1920年アメリカのイリノイ州で生まれ、シカゴでハイスクールを出てから街頭の新聞売りをしながら小説を書き始めたとある。この文庫を買った頃はご存命であったが、昨年亡くなった。もうすぐ一周忌である。

 彼はアメリカと日本が戦争をしていたころ、安物の雑誌に投稿し続けてだんだんと世に認められ、1950年に「火星年代記」を出して名を挙げた。ちなみに、「安物の雑誌」は当時のアメリカ「パルプ・マガジン」と呼ばれていたそうで、クエンティン・タランティーノの大傑作「パルプ・フィクション」の「パルプ」も同義である。


 以前、SFには「ハードSF」というサブ・ジャンルのようなものがあるという話題を出した。本格SFとも呼ばれ、ハヤカワ文庫では背表紙が青い。これに対し、消去法で「ソフトで本格的でない」ものは背表紙が白い。ブラッドベリは白組に入っている。少なくとも株式会社早川書房は、ブラッドベリーの作品をクラークやハインラインアシモフとは別種だと判断したらしい。

 実際、ハード好みのSFファンは、ブラッドベリーを好まぬ者が少なくないようで、あんなの単なるファンタジーだというのが主な言い分みたいだ。確かにブラッドベリーの短編にはファンタジックなものが多い。だが、彼の代表作「火星年代記」や「華氏四五一度」、「何かが道をやってくる」を読めば、ブラッドベリがディズニーやアバターのようなメルヘンの書き手でないことは歴然としている。


 本格SFのファンは、私もそうだから良く分かるのだが、どんなに突拍子もない出来事であっても、自分の身に降りかかるはずがないと確信して読んでいるので、作家が構想する未来の科学技術や宇宙生物の物語を安心しながら楽しめる。だが、ブラッドベリは違う。最初から最後まで不気味さは消えることなく、結末で救いが待っているわけでもない。

 モノリスやリング・ワールドやエンダーのゲームだけが好きな人たちは、ブラッドベリーが描き出す人の心の暗部や、滅び始めている世界など気分が暗くなるだけだから読めないのだろう。同じ火星人なら、ウェルズの「宇宙戦争」のような「有り得ない」化け物のほうが、非現実的なだけ安心安全なのです。


 万丈目の好きなNASAは、今や本気で有人火星飛行を目指しているようだが、私が子供のころの宇宙進出といえば当然まず一番近くの月に安住してから、次に金星なり木星なりへと拡がっていくというイメージであった。火星は運河があるかもしれないという程度で、比較的、SFの舞台としては地味なのだが、この「火星年代記」は別格である。内容には詳しく触れない。読んでください。

 私が特に好きな章は「夜の邂逅」という劇中劇で、火星に移住してきた男と、火星人の男が不思議な出会いをして別れ行くという、ただそれだけの短いエピソードだが、とても印象的である。この火星人はタコ風の巨大で凶暴な奴らではなく、なぜか人類的なのだが超能力のようなものを持ち、風貌も少し違い、どうやら時空を超えて住んでいて、そして滅亡しかけている。未来の人類を暗示しているかのように。


 ”ともだち”は何故、いつから火星移住なんぞに興味を持ったのだろうか。この「火星年代記」を読んだのか、それともフィリップ・K・ディックの「追憶売ります」(映画「トータル・リコール」の原作)か。いずれにしても、読んで憧れるような火星生活は描かれていない。だがマネらしきものはある。「火星年代記」の地球は「しんよげんの書」と似たような末路をだどる。
 
 なお、ハヤカワ文庫の「まえがき」には、クリフトン・ファディマンというお方のブラッドベリ評が載っている。「誰も、ブラッドベリのようには書かないのだ」と簡潔にして明快な評価を与えている。この前書の最後のあたりに、ブラッドベリーがこれを書いたころ人類を滅亡に追い込みかねないと誰もが心配していた核兵器について、こういう風に書かれている。


 ブラッドベリは「一つの教訓を与えようとしているのだ。(中略)人類もまだ、精神的には頑是ない子供であるということ − 悲劇的な偶然によって発明された、恐るべき玩具を持たされた子供だということを教えているのだ」。”ともだち”に恐るべきオモチャを持たせたのは、オッチョや神様の言い分とは違って、秘密基地の仲間だけではなく、精神的には頑是ない子供である人類みんなの責任なのかもしれない。

 物語に戻ります。第21集の第4話は、子供の遊びを止めさせるべく東京に戻らんとしているケンヂや将平君たちが登場する。ようやく近くまで歩いてきたのだが、目の前には壁が立ちふさがっている。


(この稿おわり)




アシュラ・K・グウィンなら「闇の左手」。
”ともだち”なら、頑是ない子供の左手。
東京都はドアに注意の右手。

































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