おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

心のずっと奥のほう (20世紀少年 第685回)

 第21集の巻名は「宇宙人現る」というサダキヨが喜びそうなタイトル。でもこの宇宙人は実際にはケンヂのことで、主人公が東京に戻ることにより、「20世紀少年」もようやく終盤と呼ぶべきところまで来た感じがする。表紙の絵は、原っぱにある秘密基地の前に立ってこちらを見ているナショナル・キッドの姿。ベルトの先っぽが外れて垂れ下がっている。

 かつて、何か所かに出てくるベルト外れのナショナル・キッドはサダキヨに違いないと論じた覚えがあるが、第21集に出てくるお面の少年は、どうみてもサダキヨ的ではなく、キリコが見つけたもう片方のナショナル・キッドであろう。前言撤回だな。しかし、私の知る限りこのコは秘密基地と何の関係もない。表紙は何を暗示しているのかわからない。ともあれ珍しく緑豊かな絵だ。


 ところで去年だったか、新聞か雑誌のインタビュー記事で宮粼駿監督が嘆いてみえた。若いアシスタントに背景の草花を描かせても、有機物らしくはあるが草花とは言えない何かにしか見えない。ジブリのアニメーターであれば、腕は世界最高の水準だろう。下手なのではなく、これは彼らが野生の草花になじんでいないからだというのが宮粼さんのご意見であった。

 私は花鳥風月の写真が好きだから、花や新緑の写真をよくアップするが、確かにここ東京特別区で野生の草花を見つけるのはそう簡単なことではなく、街路樹、公園、民家の庭先の園芸などを撮ってばかりいる。まだまだ自然が残っていた片田舎で育った私は、ときどきこの都会にいて息が詰まるような気になる。ちょっとした旅行をして、海や山に囲まれて元気を取り戻してから帰って来る。


 第21集の中身に入る前に、前の巻で初登場(たぶん)したもう一人のナショナル・キッドについて、前から不審に思っていることを忘れぬうちに書いておく。彼はなぜ、サダキヨと同じ格好をしているのだろうか。目立つお面はもちろん服装までそっくりである。今後いくつかの場面に出てくるので、また考える機会もあるだろうが、それにしても妙だ。

 無礼を承知で申し上げるが、サダキヨは他の子が真似したくなるような少年ではない。いつも変なお面をかぶっており、いじめられており、屋上で宇宙人と交信しようとしている。実際、サダキヨのお面を取り上げて外出したフクベエは、人違いされてボコボコにされてしまったのであった。同じ被害に遭うおそれがあるのに、なぜサダキヨ姿なのか。


 サダキヨのほうが真似たという考えはどうだろうか。サダ君は変な子ではあるが、決して嫌な子ではなく、例えばキリコを見て「クククッ」と笑うようなキャラクターではない。それにどちらかというと彼は単独で行動するタイプであり、そんな彼がフクベエと行動を共にしている他の子の真似をするというのは、あまりしっくり来ない案です。やっぱり別の子がサダキヨを真似たような気がする。では改めて、なぜか。

 後の展開でわかるが、この二人はそれほど親しい仲ではなさそうなのに、それにもかかわらず別の一人は重大な軍事情報をサダキヨ一人に教えている。どうやら、わずか5年の1学期だけ在校したサダキヨにシンパシーを感じている様子である。何かが似ていたからか。境遇とか。お互い、いじめられっ子であったというのは有り得る。


 先を見越して言えば、サダキヨでないナショナル・キッドは、他人と同じ覆面姿のコスチューム・プレイをするのが好きなのかもしれない。もしそうだとしたら、こちらこそ本当の「顔のない少年」であろう。フクベエの「のっぺらぼう」を思い出すな。小林秀雄は田中美知太郎との対談の中で、歴史は鏡だという議論をしたあとで、こんなことを言い足している。

 「鏡には歴史の限界なぞが映るのではない。人の一生が映るのです。生まれて苦しんで死んだ人の一生という、ある完結した実体が映るのです。それを見て、こうやっていま、生きていて、やがて死ぬという妙なまわり合わせが得心できる。それが、鏡という意味でしょう」。あくまで小林は鏡を歴史の比喩として使っているが、私は同時に大宅壮一の「男の顔は履歴書」という言葉も脳裏に浮かぶ。


 人類の過去から現在までの集大成を歴史と呼ぶならば、個人の誕生から現在までの集大成が人生だ。こういうと未来はないのかと未来志向とやらの人から言われそうだが、無い。人の時間には過去と現在しかない。未来は順調にいけば来る気配もあるが、津波がきたら瞬時に人生は終わる。人の一生はあくまで今昔物語なのだ。

 古代ギリシャ人の時間感覚は、乗り物に後ろ向きで座ったような状態であったと聞いたことがある。見えるのは過去だけ。感じるのは現在だけ。あとのことなどわからないとペギー葉山も歌っていたではないか。しかしあの歌も残酷で、美しい娘になるよと言ってあげればよいのに、母の顔を見て物をおっしゃいという返事である。


 子供を育てたことのある人なら、きっと同じ経験があると思うのだが、まだおしゃべりもできない年頃の幼な児も、ほとんど瞬時に鏡が何を映しているのかを見抜く。ついでにもう一つ、かならず抱いている人のメガネを取りに来る時期も来る。鏡は正直で白雪姫のほうが美しいと臆面もなく言うし、私の場合もその日の気分や体調がこれほどまでに顔に出るのかと鏡を見ながら感心することが多い。

 そういえば面と向かった相手の顔も、ある種の鏡だそうだ。人はお互い相手の表情を見ながら、自分の気持ちを合わせていくものらしい。「目は口ほどにものを言い」という。実際には目の周囲の筋肉はあまり活動的ではないそうだけれど、それでも私たちはお相手の微妙な表情から相手の感情をくみ取り、相手も同じことをしている。それも殆ど無意識に。顔の皺をのばす何とかいう薬品を使うと、この微妙な表情を作れなくなり、相手の気持ちが分からなくなってくるという怖いお話しを先月、聴いた。


 フクベエ少年は鏡に向かって、「きみは、カツマタ君?」と尋ねて「クククッ」と笑った。笑いごとではなかろう。鏡の自分が誰だかわからない事態というのは、小林秀雄の表現を借りれば自分の一生が映っていないということだ。お面をかぶっていても同じく見えない。サダキヨはキリコに言われてお面を取り外し、先生になってからはもちろん付けなかった。

 しかし、どうやらもう一人のナショナル・キッドは、サダキヨよりも心のずっと奥のほうで一層深く傷ついており、自分の過去も現在も直視したくない少年であり、それがそのまま大人になったかのようである。まだしもフクベエは、私生活ではもちろん、”ともだち”としても素顔で人に会っている。春さんも高須も敷島教授の娘も知っていたのだから。

 だが、「なりすまし」の男は自分の存在価値に疑問を抱き続けている。しかも、たちの悪いことに他責的、他罰的なのであった。ちなみに、漫画「ナショナル・キッド」には空飛ぶ円盤が良く出てくるのだが、最初に飛来した円盤は窓が三つあって、ユキジやオッチョが見つけたマー坊作の円盤とよく似ている。さあ、第21集の始まり始まり。ところは北海道、最初の主な登場少年は、DJコンチと13番改め田村マサオである。



(この稿おわり)



上野公園の雑草 (2013年4月5日撮影)




 永遠なのか本当か 時の流れは続くのか
 いつまで経っても変わらない そんなものあるだろうか

                  「情熱の薔薇」 ブルーハーツ



































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