おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ナショナルキッド物語 【後半】 (20世紀少年 第827回)

 前回の続き。このシーンは不審なことだらけなのだ。なぜサダキヨが選ばれたのかに関連して、そもそもなぜ二人の少年は同じお面をかぶっているのだ? 

 サダキヨについては、屋上で宇宙人と交信するにあたり、ナショナルキッドのご利益に預かりたいという大義名分があって(違ったかな?)、それに加えてお面をつけるのが生涯の趣味だったようだったが(出世してお面大王になった)、もう一人の少年はなぜ選りによって同じお面なのだろう。


 この町では下手にお面を付けて歩いていると、サダキヨに間違えられて酷いイジメに遭う恐れがあることは、フクベエの実体験が示す通りである。それにも拘わらず少年はサダキヨのマネをしたのはなぜか。それとも、サダキヨが真似たのか。

 後者はあまり魅力的な想像ではない。サダキヨは良かれ悪しかれ孤高の人であり、同じ格好をして仲間に入れてもらおうとする性癖はない(そういう方法は仲間はずれになった子が社会復帰に努めるときや、反抗的になった連中が相互の連帯感を高める際の常套手段である)。


 では、きっとサダキヨは真似られたほうだ。するとマネたほうの少年は誰だ。このシーンは巧みに(意地悪に)描かれていて、サダキヨでないほうの少年の左胸が常に隠れているため、バッヂをつけているかどうかが分からない(追記。実はバッヂの有無だけは最後に分かる)。

 だがどうみても前後の展開からして、公園その他でフクベエと山根の連れとして描かれ、万丈目の記憶にも残っていた少年、ケンヂに先立ちバッヂを手に入れ、後に濡れ衣を着せられた少年、復活のマネをして「僕こそ20世紀少年」と名乗った「永遠の少年」(これも言いだしっぺはユング派だ)と同一人物だろう。


 回りくどく書くのも面倒なので、以下、カツマタ君にします。カツマタ君の初出は古い。作者は例の「ノックスの十戒」でいうと、その1「犯人は物語の序盤において言及されなければならない。」を参考にしたのだろうか。彼の名は第1集に出てきた。

 ただし、登場人物としてではなく、昔話の中でフナの解剖の前日に死んじゃった子としてその名が挙げられている。ドンキーのお通夜の精進払いの席で、モンちゃんが語った思い出話だ。その後の出番も同様であり、そのまま神田ハルと同じように幽霊の生前の名前として物語に埋没していくかにみえた。最後の最後まで、ひたすら影の薄い主役級である。


 カツマタ君は山根やサダキヨと同じように、すぐに友達を作れるようなタイプではなかったのだろうか。そのため、彼らと同じようにフクベエという名の底なし沼に落ち込んだか。前回も書いたが、山根とサダキヨはまだしもフクベエに名前を呼ばれていたが、カツマタ君は「おまえ」とか「あいつ」とか名前のない少年扱いを受けている。

 相手の名を呼ぶというのは、親しくなる手段として手っ取り早いことこの上ない方法である。逆に嫌いな相手の名を呼ぶのは苦痛である。それが彼の受けていた仕打ちであった。

 先ほど書いたように、相手と同じ奇抜な格好や言葉遣いをするというのは、群れ集うのに便利な確認と監視のための行為である。この漫画で言えば、オッチョが帰国したときに見たガングロの少女たちとか、目玉マークを付けて威張っている連中とか。


 カツマタ君は、その素っ気ない言動とは裏腹に、サダキヨに親しみを抱いていて、お近づきになろうとしていたのか。でも、それなら転校すると言われて動揺しないのはおかしい。専売特許のお面姿をマネされているのに、黙認している感じのサダキヨの態度も妙だ。

 またしても結論が出ない迷路に迷い込んだ気がする。苦しんでまで漫画の感想文を書くのかと言われそうだが、ここまで続けてきて今さら素通りできる場面とは言えない。

 前段落で専売特許と書いたが、実際、この物語では屋上と言えばサダキヨであるのと同じく、お面といえばこれまたサダキヨであり、ときどき注意事項として「お面かぶっているのだからサダキヨとは限らない」というセリフまで挟まる。


 では、カツマタ君のナショナルキッドのお面は、その服装や髪型に至るまで似ていることまで考えあわせると、単なるサダキヨのマネというより昆虫の擬態と同様、何かから逃げるなど敵をあざむくためにサダキヨの外見を利用しているのだろうか。

 リモコンの隠し場所情報の提供は、転校に際してのお礼みたいなものか。サダキヨが去りし後、次は何に擬態するつもりだったのか。成人後の擬態相手は歴然としている。幼少時の計画どおり、フクベエのマネだった。幸いフクベエもお面を使ってくれたから楽だったのね。


 何度も繰り返すが、こういう日陰者のような(失礼)彼の性向は万引の犯人にされてしまう前からのことである。その出来事が拍車をかけたとしても、元々、素顔で人前に出られない何らかの事情を抱えた子供だったのだ。その事情が何だっかのかを詮索しても意味はないだろう。描かれていないのだから。

 第1集の107ページ目でモンちゃんの口から「カツマタ君」の名前が出たとき、ケンヂはすぐに反応せず、しばらくしてから「あ、思い出した」と言っている。他方で第22集で”ともだち”に謝罪したとき、「ずっと後悔してた」「ずっと心の奥で、決着つかないままだった」と言っている。

 その時点でカツマタ君の名と目の前の”ともだち”は結びついておらず、ナショナルキッドのお面および万引事件と、フクベエではない”ともだち”の関係だけに気付いていたということだ。ケンヂが何時それに気付いたのかもペンディングにしたままでした。


 北の検問所を破ってから(あれは勿来か白河か)、蝶野刑事との二人旅が始まったとき、ケンヂは刑事に対して、東京には決着をつけないといけない相手がいると言った。チョーチョは事情に疎いので、ケンヂは相手がジャリ穴のらい魚だと誤魔化していたが、さて、その時点なりその後なり、ケンヂが得た情報といえば、蝶野刑事が語った万博開幕式の「遊びましょ」の件だけしか知らない。

 あとは一般的な手がかりとして、宇宙特捜隊への愛着が生んだかもしれない地球防衛軍の存在か。しかし、これらだけではちょいと証拠として弱い気もするが。それとも消去法かな。すなわちフクベエは「遊びましょ」とは言いそうもない性格である。復活などケンヂが信じるはずもなかろう。山根は死んだ。サダキヨならズルはしない。


 漫画で描かれている範囲では、ナショナルキッドのお面小僧が二人いることを知ったのは姉キリコだけだったが、そのころは二人とも同じ格好して同じ場所を出歩いていたのだ。キリコが読書していたのだから、たぶん遠藤家から近い公園だろうし、ケンヂも二人そろったところを見たことがあったかもしれない(こじつけの嵐)。それに同じ小学校で同学年なのだ。後述するがオッチョは多分それに気付いている。

 1997年のともだちコンサートから放り出されたとき、ケンヂが突如思い出した「遊ぼうよ、ケンヂくん」と言っていた少年。ケンヂの弱い記憶力によれば忍者ハットリ君のお面だったがそれはともかく、あの木の幹に隠れていた子の姿は、連合軍が塔の中で見つけた「気持ち悪い」人形の立ち姿とどことなく似ている。


 少なくともトラックの中でマルオがバッヂを見つけたとき、ケンヂは全く反応を示していないから、それまでには”ともだち”の正体の心当たりを得ていたはずだ。残るは読者がヴァーチャル・アトラクションでしか知らない第四中学校にロックが初めて流れた日に、本当の屋上で実際に何が起きたかだ。これについては下巻の該当場面で考えよう。やれやれ。

 ともあれ、サダキヨは”ともだち”最期の日にリモコンの操作を食い止め、自分自身の最期のときには、リモコンの隠し場所を明らかにしたのだから縁は異なもの味なものだ。




(この稿おわり)










いずれも勿来の宿にて (2013年12月12日撮影)























































.