おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

一度はおいでよ三丁目 (20世紀少年 第653回)

 私見によると全員集合時代のドリフターズは、前半のカトちゃん時代と、後半の志村時代に大別される。ネット情報によれば、荒井注志村けんが交代したのは1974年のこととある。私は中学2年生。中学に進学して以降、部活やロックや麻雀で忙しくなり、ほとんどテレビを観なくなった。

 したがって、私が喜んで観ていた「8時だよ」は加藤茶の単独全盛時代であり、志村をほとんど知らない。その逆の世代も大勢いるはずだ。実際、中学高校のころ、たまに全員集合にチャンネルを合わせると、客席は志村志村の大合唱であり、時代は変わったものだと思った記憶がある。


 映画「20世紀少年」第一作の冒頭で、第四中学校の昼休みにロックが流れた日、教室で弁当やお喋りや平凡パンチに夢中になっている中学生たちが出てくるが、女の子二人の会話は「昨日の荒井注、見た?」で始まる。他方、去年テレビで三週連続放映されたほうのバージョンでは、「荒井注」が「ドリフターズ」に吹替えられていた、時代はさらに変わったのである。

 そんな私でも、志村時代の「ヒゲダンス」と「東村山音頭」ぐらいは知っている。たぶん東村山という地名は、この歌で知ったのだと思う。そして、1995年に私は東村山市民になった。希望して引っ越したというよりも、転職に伴い、ここにある家族寮なら住んでよいと言われて転入したのだ。


 東村山市は浦沢さんのご出身地、府中市のほぼ真北にあり、両市は南北に走る府中街道で結ばれている。私が暮らしたのは東京都の浄水場の南、富士見町というところで小平市に隣接している。実際、最寄の駅は小平の小川駅であった。近くに野火止用水が流れていて、「飲むな」という看板があちこちに立っていたが、これまで東京で見た水流の中で最もきれいであった。

 周辺は緑豊かな土地で、尾長鳥があの独特の飛び方で木々の枝を伝いながら飛んでいく。近くの商店街にはラーメン屋が二軒ほどあって、まだ二三歳だった長男を連れて、週末はケンヂとカンナのように一緒にラーメンを食いにいくのが楽しみであった。2歳のころは二人で一杯だったが、お店の人は親切であり、頼む前から取り皿をくださる。2年後に転出してカンボジアに渡った。


 その東村山にトラックで移動したマルオは、通りすがりのおじさんに道を尋ねたところ、「やめといたほうがいい。帰れなくなるぞ」という物騒な忠告を受けてしまった。諦めるわけにいかないマルオが現地に着いてみると、作りの荒い金属製の壁に鉄条網が敷かれ、見張り塔もある北の検問所のような高圧的、排他的な施設である。

 仰ぎ見れば見張り塔の上空に、一振りの旗が翩翻と風になびいている。かつてアメリカ大陸でも用いられていたソバ屋のロゴ・マークである蛙の笑顔の絵の下に「カエル帝国」の文字。意外な展開に「ゲロゲーロ?」とマルオは取りあえず言った。さて、そのころユキジの道場では、作戦計画において意見が分かれ議論が白熱している。



(この稿おわり)




牛込中央通り名物、風力と太陽光のダブル発電 (2013年3月9日撮影)




 はるか奥多摩 小河内ダムの ソレヤレソレ
 水も呼ばれて きれいになって
 東京通いの 浄水場 浄水場

       「東村山音頭」 (本家本元の歌)






































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