おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

駄菓子屋  (第966回)

 お母ちゃんがサンフランシスコでのパンデミックを報じる新聞に「怖いねえ」と感想を漏らす。また売り物に手を出したかとケンヂ店長は叱りに来るのだが、まだ彼にとって全身の血液を失う感染症は他人事のようであり、それよりも隣の記事にある高校教師が投身自殺したというローカルなニュースに目を奪われた。ドンキ―3号、木戸三郎先生の訃報であった。ケンヂによるドンキーの追憶が始まる。

 ドンキーは走る修行僧と称されたアベベ同様、裸足で道路を走っている。アベベは軍人だったから靴くらい幾つも持っていただろうし、いくらでも買えただろうが、ドンキーは靴無しのほうが速く走れるという理由に加えて、もしかしたら消耗を恐れて走るときは脱いでいたのかもしれないな。走る貧乏であった。


 木戸家はスポーツのチームができるほどの子だくさんだったが、ご両親は三郎の才能と熱意に賭けたのだろうか、高校の担任の先生になっているのだから、ドンキーは大学を卒業したに違いない。サダキヨも同様であるが、全体にケンヂの仲間たちは当時にしては高学歴である。彼や私の年代の大学進学率は20%代の半ばで、つまり学士の割合は4人に一人ぐらいである。

 モンちゃんもオッチョも大学を出て、大企業に就職している。マルオはドンキーに最後に会ったのが大学を卒業したころと言っていた。ケンヂの場合、大学進学までは確認できるが、卒業した形跡はない。キリコはこの出来の悪い弟のせいで入試の日に病院で待機になってしまったが、遅れて学位を取っている。ユキジと市原弁護士は大学の同窓生であった。


 当時はみんな似たような中流の出身であり(あくまで貧乏国日本の真ん中あたりという意味なのだが、勘違いしているひとが多い)、差がつくとすれば学歴次第という民間信仰があり、うちの母など二言目には勉強勉強であった。五十年ほどかけて、それが妄想に過ぎなかったことを、私をはじめ多くの同輩が証明している。

 でも、繰り返すが、あの時代は親が子に身に付けさせることができることといったら、礼儀と学歴ぐらいだったようなものだ。そんな時勢にフクベエは、どうやら大学進学を果たせなかった模様である。ご近所も宗教仲間も、よく覚えていないほど影の薄い青年であった。カツマタ君に至っては映画の解釈のとおりだとすると、そうとう進学では苦労したはずである。

 要らぬ劣等感を抱くと、カルトに嵌りやすいという論文を読んだことがある。オウムはエリート集団が大変なことをしでかしたと報道されたものだが、あれは教祖の学歴コンプレックスが幹部にのみ高学歴者を集めただけで、進学や就職で苦しんだ信者がむしろ大多数だったという話を聞いた。そういう人の弱みにつけこんで金を巻き上げるのが悪徳宗教の常とう手段であろう。


 さて、ジジババの店が登場する。ウルティモマンのガムと当たりの景品バッヂもある。私としては、あの緑色の虫かごが、例えようもなく愛しい。しかし、さすが東京だなと思うのは、先の大学進学率に加えて、ジジババで売っているお菓子やおもちゃが華やかで垢抜けていることだ。

 同じ時代の田舎で育った私の場合、駄菓子屋はあのように色あざやかな包み紙などで売られていたものは少なく、一番幼い頃の思い出によれば、一斗缶くらいありそうな四角いガラスのケースに詰まった駄菓子の量り売りであった。一取引単位は五円だった。まだ穴の空いていない五円玉が流通していたころである。


 ジジババの店頭では、ちょっと早すぎるタイミングだと思うのだが、マルオがいきなり当たりくじを引いて、ケンヂとヨシツネに自慢している。早すぎるというのは、この滅多に当たらないアイスのくじを当てたカツマタ君とマルオ、景品が欲しかったケンヂの3人が、なぜあんな大騒ぎを起こすに至るのかについて、漫画は手を替え品を変えて当選確率の低さを強調しているのだ。(追記)バッヂはアイスではなくて、ガムの景品でした。ごめんなさい。

 作者は何故、ただひとり当たりを引く役をマルオにしたのだろう。思うにマルオはオッチョとは違う意味で、ケンヂと最も親しい子だった。親の代から同じ商店街で寄り合い、血の大みそかも”ともだち”にお迎えが来た最後のシーンでも一緒だった。お年玉泥棒とバッヂ泥棒の現場も見た(後者の疑惑について、マルオはひたすら沈黙を守っている)。要するに、主人公と代表的な幼馴染を対比させたのだろう。


 ちなみに、現代の東京でも、あのジジババと同じような菓子屋が、まだ少なくとも三軒残っているのを確認しております。いずれも、入って左側の壁際にアイスクリームが入った白くて大きな冷凍庫が置いてある。売り手はそろって高齢の女性であり、跡継ぎがいる気配はない。とはいえ、子供らがゴチャゴチャ集まっているのが嬉しい。

 ケンヂの視線は、まず万博のポスターに注がれ、しかし瞬時に隣の「団地妻」に移行して固唾を飲んでいる。その次に目に入ったのが、鼻水をタオルでふいているドンキーのランニング・シャツ姿だった。昨今、子供がランニング姿でいるのをテレビや映画も含めて見た記憶が無い。かろうじて、イブの夜に観た「ダイ・ハード」でマクレイン刑事が、そういう姿で活躍しておられた。

 自転車で逃げる三人を裸足のドンキーが追う。彼らが駆け抜ける新宿区の道路沿いには、遠藤酒店があり、あの神社があり、スナックのロンドンがあり、隣接して喫茶さんふらんしすこもある。その道の行き止まりに「ミラノ座」という映画館がみえる。原作に忠実な立地である。新宿でミラノ座といえば、若いころよく映画を観に行った歌舞伎町の映画館を思い出すが、どうみても歌舞伎町ではないな。


 日本の会社員が、個人事業者の数を抜いて勤労者の過半数になったのは、私が生まれた1960年のことである。それまでの日本人の大半は、農林水産業か(農家が最大人口)、この商店街のような小売り、接客、町工場などのお店経営だったのだ。このあたりは、漫画も当時の現実を反映している。うちの近所では個人経営の酒屋も本屋もクリーニング店も、ここ二三年で立て続けに店を畳んだ。

 ケンヂたちの商店街でも、最後まで頑張って親の商売をそのまま継いだのはケロヨンだったが、大みそかの夜に年越し蕎麦も打たずに遊んで過ごそうとして天誅を受けた。ほかもみんなそろって失業した。生業を失わずに済んだのは神様くらいだろう。20世紀少年たちは20世紀の終焉とともに、ほとんど笑顔を失った。ドンキーは、走り終えた新聞記事の写真で笑っている。


 それにしても、なぜミラノ座なのだろう。田舎の静岡にもミラノ座があった。イタリアで映画祭といえばヴェネチアなのに。スパゲティならナポリなのに。ミラノにはイタリア旅行の帰路に乗り継ぎで寄り、空港のデューティー・フリーの田舎者向け売り場で暇つぶしをした。みればファッション雑誌からそのまま抜け出したようなブルネットが微笑んでいる。

 つい、小さな黒革のバッグを手に取ってしもうた。ちょうど値段が、使い残したユーロで買えるとはお天道様のお導きというものだろう。もっとも買う直前に少しだけ我に返り、「これは女性用ではなかろうか」と売り子さんに訊いてみた。

 ミラノのブルネット娘は、「う」という感じで詰まった。旅の終わりに正直な美形とは、昨今、得難いお土産ではなかろうか。わずかな沈黙のあとで、ようやく彼女はオリエンタルおじさんへの返答を思いついたようで、「イッツ・ユニセックス」と英語で、こわばった表情のままで説明してくれた。そのあとで彼女は、ケロヨンに再会したマルオのように「たぶん」と確かに言った。





(この稿おわり)






後楽園にあるシビックセンターより、新宿方面を望む。
エンパイア・ステートビルみたいなものも、はるか遠くに見える。
(2015年11月30日撮影)







 へばっちゃ駄目だぜ 先はまだ長い
 42.195キロだぜ
 走れ 走れ ゴールに向かって
 辿りついたら 泣けてくるだろう

       「どんまいどんまい」   河島英五







































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