おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

一所懸命 (20世紀少年 第585回)

 第18集の34ページ目、オッチョはカンナに、なぜ武装蜂起は8月20日なのかと尋ねている。カンナの返事は、ケンヂおじちゃんの誕生日だからというものだった。誰かの誕生日に事を起こすという習慣なり歴史的事実があったかどうか、思い出そうとしたが何も思い浮かびませんでした。私なら大安吉日を選ぶな。

 かねてからの懸案事項の一つであったケンヂの誕生日が夏か冬かという問題はついに解決できないまま、とうとうこの場面まで来てしまった。カンナがここまで明言しオッチョも否定していないので、ケンヂの生年月日は1959年8月20日ということで、これ以上、深追いはしない。干支は亥、いのしし年生まれである。大安だったかどうかは分からない。


 そんなことケンヂが望むと思うかとオッチョは言う。こういう言い方、「〇〇が望むと思うか」というのは、通常、〇〇さんが死んだあとで、誰かが誰かを説得するときに、共通の知り合いである故人の人柄などを持ち出して納得させようとするウェットなレトリックである。

 オッチョは、すでにケンヂ存命の可能性に関する情報を入手しているので、必ずしも情に訴えようとしただけではないような感じがするが、カンナは通常通りの意味合いに受け取ったようで、「説得なら聞かないわ。帰って。」とにべもなく拒絶している。


 オッチョもそう簡単に引き下がるわけにはいかない。彼の目の前にいる娘は、当の本人がそれをどう思おうと、あるいは当の本人が自分に反抗的であろうと、「俺達の最後の希望」として守り抜く決意をした相手である。彼女一人を止めるのは無理と判断したオッチョは、彼女の仲間の話に切り替えている。

 みんな死ぬんだぞとオッチョは言った。「ああやってお前を信じて、一所懸命活動している彼ら、みんな死ぬんだぞ」とその暴挙を諌めようとするのだが、みんなが望んだことだとカンナは振り向きもしない。さすがのオッチョも怒りを露わにして「カンナ!!」と声を荒げている。


 だがカンナは自分の愛する人はみんな死んだ、私はもう何も感じないと言い返して、右腕の袖を捲り上げた。ワクチンの跡がある。その特別な事情をこれからカンナがオッチョに話し始めるのだが、それは次回以降の話題にします。今回はちょっと脱線して終わります。オッチョの「一所懸命」という表現についてである。

 すでに私の子供のころから、「一生懸命」という漢字表記のほうが一般的である。通常は「力の限り」努力するようなときに使われるものであり、一生の間、命を賭けるというほどの重さではない。「必死」が必ず死ぬという意味ではないのと同じ。

 
 わが広辞苑によると、「一生懸命」の説明は「一所懸命の転」とそっけない。お互い意味は同じで、語源(古いほうの表現)が「一所懸命」だということだ。「一所」とは、生活の頼みにする土地のことで、武士の世では領地のことだ。武士であれば修辞ではなく、文字どおり全財産に命を賭けるだろう。古い出典の例では「太平記」の巻三十三に出てくる。

 新田義貞の二男義興をだまし討ちしようとした敵将らに命じられて、竹沢右京亮という者が義興らに嘘をつくのだが、その中に「差たる罪科とも覚へぬ事に一所懸命の地を没収せらる」という如何にも悔しそうな表現が出てくる。策略を信じでしまった義興とその一党は、武蔵国の矢口というところで追い詰められて全滅した。

 いまはその地に新田神社があって、新田義興を祭っている。現在の住所表記でいえば東京都大田区にあり、近くに多摩川が流れ、「蒲田行進曲」でお馴染みの蒲田もそばにあり、その向こうには羽田空港がある。ヨシツネのかつての秘密基地もそう遠くないところにあったはずだ。




(この項おわり)






実家の前の道から見た富士山。
右の樹の枝にムクドリがとまっている。
(2013年元旦撮影)



















































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