おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

刑務所から出て来た男 賭けには強い女 物覚えの悪い奴 (20世紀少年 第590回)

 カンナのアジトでは氷の女王一派と呼ばれている男たちが、火薬や銃の整備をしている。第18集第5話のタイトル「みんな、集まって」とは、ビルの屋上でケンヂの歌を聴いたカンナが、その場に降りて来てかけた最後の招集の言葉だった。話たいことがあるとカンナ。新しい作戦の指令か、なんでも言ってくださいと沸き立つ戦士たち。

 カンナはまず「ごめんね」と詫びた。そしてこれまでの彼らの艱難辛苦に感謝し、労いの言葉をかけ、その日を生き甲斐としてきた皆の心境を代弁しつつ、亡くした家族や親友や恋人の復讐を遂げたいという、先ほどまでの彼女と同じ彼らの思いに共感を寄せている。カンナ一世一代の名演説であろう。


 「8月20日武装蜂起は、中止します」と理由も述べずにカンナは宣告した。オッチョは傍らで深刻な顔をし、事態の行く末をはらはらしながら観ていたに違いないのだが、武装蜂起するはずだった兵士たちの反応は、カンナにとってはもちろん、オッチョにとっても意外だったのではなかろうか。

 一瞬、しんと静まり返った彼らだったが、口々にこう言う。何、謝ってるんすか。水臭いよなあ。これもリーダーの命令とまで言ってくれた。オッチョの心配をよそに、彼らは単なる復讐目的の暴徒ではなく、信長軍のごとくリーダーの統率が行きわたった規律正しい軍事組織であったのだ。


 それにしても男ばかりである。それも若者ばかりだ。以前のカンナの説明によると、彼らは西暦を終わらせたウィルスの脅威により親しき者を亡くし失意のどん底にあった人達であったという。ウィルスが性別や年齢を選ぶという情報は一切ないから、路頭に迷ったり心に深い傷を負ったものは若い男ばかりではなかったはずだ。

 だが、ヨシツネのゲンジ一派と袂を分かって後のカンナは、武装蜂起という目的に沿って人材を選んで組織を形成してきたのだ。村上龍氏といえば最近とみにハローワーク的になっているが、かつてもっと反社会的だったころ、「全ての男は消耗品である」という衝撃的なタイトルの本を書いた。


 最近は戦争も肉体労働だけではなく、ITの時代を迎えて知能労働も増えたようで、国際報道によれば女性の軍人も少なくないようだ。それでも、いざ死を覚悟の決戦のときがきたら、この人がいないと隊の存亡にかかわるというのでもない限り、多くのリーダーは決死隊に女を選ばないのではないかと思う。

 女子供は消耗品ではなく、次の社会を産み育てるという役割がある。男にだってあるが、効率と機能が違う。極端な例を挙げれば、戦争で男100人と女1人が生き残るケースと、女100人と男1人が生き残るケースを比べてみれば一目瞭然、1年後に前者はせいぜい1人の子供が生まれている程度だが、後者なら100人の子が生まれてくる。


 かくて男は幼少時の教育過程において、女子供を守るべしという倫理を叩き込まれることになる。なにも戦争に限った話ではなく、タイタニック号が沈んでも、人質解放の交渉も、多くの法律による保護も女子供が優先である。この不均等も男が社会で生きていく限り当然のことであり、議論の余地はないように思う。

 だからケンヂも、ヤン坊マー坊さえ誘いをかけた地球を守る戦いのとき、ユキジには連絡すら取らなかったのだ。血の大みそかでオッチョは、「俺達の最後の希望」という表現でカンナに加え、ユキジをも退けた。私のような軟弱者であっても、彼らと同じ立場にいたら同じことをするだろう。


 カンナは武装蜂起中止の理由について、その結論を伝えた後から述べている。「ある人を探しに行かなきゃならない」のである。それが誰であるか訊くこともなく、いつでも集合かけてくださいよと青年たちは、一旦死を覚悟したものはかくなるものかと感じ入るほどに飄然としている。ここまで仲間に恵まれていたとはカンナも改めて思い知ったであろう。

 カンナ最後のメッセージは、遠藤家伝統の訓示である。ムチャしないで、一目散に逃げて、頼むから死なないでの三つだ。「はい、カンナさん」という合唱とともに、武装蜂起一派は停戦状態に移行した。これを見つめるオッチョの表情が悲しいほどに静かである。確かに、あいつは今でも彼女の中に生きている。


 この続きは105ページに跳んで、排水溝から外に出てくるオッチョが連れのカンナに、地下の秘密トンネル網の見事さを珍しく率直に褒めている。壁を越えずに東京の外に出られる仕組みである。「オッチョおじさんも以前そうやって刑務所から出てきたんでしょ」というカンナの顔つきが明るい。オッチョは、またその話題かいと言いたそうな顔をしている。

 カンナによれば、これから一人旅に出かけて、ケンヂおじちゃんの曲を流しているラジオ局を探すのだという。後出するマルオたちは科学技術で発信源を突きとめているのだが、カンナは徒手空拳だから大変だ。こればっかりは止めても無駄だなというオッチョは、もしかしたら内心では、自分が行きたいのに羨ましいなと思っているような感じもする。


 算定根拠は不明であるが、オッチョはあいつが生きている確率は「正直五分五分」と言っているが、カンナは「あたし賭けには強いの」と応じた。確かに、例の賭場でもカンナは連戦連勝であった。もっとも、ラビット・ナボコフの最終戦は、賭けというよりハッタリに強かったおかげのような気もするが、博打で勝つにはハッタリも不可欠か。

 オッチョは東京に残ってヨシツネたちを捜すという。カンナはお詫びの言葉を伝えるようお願いしている。ヨシツネに「甘い」と言ってけんか別れしたきりなのだ。連絡も取れないらしい。「あいつは昔から物忘れがひどいから、とっくに忘れているさ」とはオッチョによるヨシツネ評である。

 そうだったかなあ...。少年時代、オッチョ少年はヨシツネ少年に夏休みの宿題を教えてやるなどしていたはずだが、そのとき余ほどの苦労をしたのであろうか。だが、オッチョが本当に伝えたかったのは次の発言だ。「それより、あいつが本気で怒るのは、おまえが戻ってこなかったときだ」とオッチョは別れの言葉を述べた。帰ってくるまでが遠足だ。



(この項おわり)




かつて公害で生物が死滅した排水路にコイが戻ってきました。 (2013年1月1日撮影)












































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