おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

またアレが (20世紀少年 第771回)

 第22集の202ページから登場する”ともだち”は、ジャケットの左の襟に小さな宇宙特捜隊のバッヂを付けているのだが、その後の絵には、ときどき抜け落ちている。アシスタントさんも疲れが出たかな。このバッヂ、先ほどもトラックの座席にあって、ヒントのつもりで置いたのだろうか。「思い出させる遊び」のつもりなのだろうか。

 実際、第11話の最後で、「思い出せよ。おまえこそ悪の大魔王じゃないか、ケンヂくん」と言っている。でもおそらく、ここでケンヂが「ああ、思い出しました」とか「その節はすまん」と言っても済まないだろう。彼の「子供の遊び」の目的は、想像しづらいが多分、ケンヂを悪者にして万博会場の人々を滅ぼすのが第一ではあるまいか?


 そこまでならフクベエのマネともいえる。だが、その間、「なぜこんなに自分が責められるのか」とケンヂが悩み苦しむのを見て楽しみたいのだろうか。全体の流れや彼の言動からして、私にはそんな風にしか感じられない。人類滅亡計画は単なる手段であって、目的はケンヂに対する恨みつらみを晴らすことに重きが置かれているように思える。

 一般に日本人はここまで怨念や憎悪が深く長くは続かない民族だとよく言われているが、これが本当ならこの男は日本人離れした執念深さと、それを支え得るだけの厳しい体験、深い心の傷があるのだろうか。確かに青少年時代に受けた意地悪や誹謗中傷を私もよく覚えているし、嫌な気分はなかなか消えないものだが、ここまでやるか。


 多くの人々がグータララ、スーダララを歌いながら万博会場に集まりつつある。みんな家に閉じこもっていたのだが、ラジオからこの歌が流れ、カンナとコンチのDJを聴き、ハンドマイクの宣伝口上も耳にし、街角に貼られたポスターを見た。フェスティバルの日時は記載されていないが、どうせ世界の終わりまであと二三日なのだ。

 サナエとカツオの一家も歩いている。子供たちは元気だが、じいちゃんは「俺あ、もうだめだ」と力尽きようとしている。サナエは伝説の男が来るのだと励ました。じいちゃんは奮起するが、会場に着いてもプロスラーがおらずボンバイエも聞けなかったらショック死してしまわないか心配。


 群衆の上空に飛行物体が現れた。暗くてライトしか見えない。みんな円盤だと怯えるが、一人のおっちゃんが「いや、あれは」とスーパーマンの見物客のように気が付いた。バババと円盤らしからぬエンジン音が聞こえてくる。ヘリコプターであった。運転席では同じくグータララ節を口ずさみながら、「俺の人生の決着をつける」と田村マサオ。目指す方向に火の海が見える。

 そのころ”ともだち”はケンヂ相手に、思い出さなきゃ大事なカンナを踏みつぶすぞと脅迫しつつ、リモコンを操作し始めた。ロボットが前進を開始し、氏木氏は「常盤荘が」と自宅兼事務所の心配をしている。ケンヂは無言のまま、心の中でカンナに呼びかけた。


 カンナは常盤荘のベッドで夢を見ている。幼かった頃コンビニ店長のケンヂの背中出ないていたこと、3歳児のころ一番街商店街でケンヂの弾き語りを聴いていたこと、「おじちゃん絶対に戻って来る。だから泣くな」とケンヂに言われた血の大みそかの夜。一所懸命、幸せになれと映像の中から語り掛けてきたキリコ。

 「泣くな、カンナ。行け」と20世紀最後のケンヂ、「万博会場へ行け」とよびかける現時点のケンヂのテレパシー。それにズーンという重い足音が重なって響き、カンナは目を覚ました。外が騒がしい。カーテンを開けて外を見ると、いまいましいロボットが自分に向かって進んでくる。


 「まさか、またアレが」という彼女の驚きは、すでに第1集の冒頭場面でも出てきた。連載時では何年前のことか。続いて彼女を襲ったのは恐怖ではなく、「またあのときみたいにケンヂおじちゃんを連れ去っていく」という怒りであった。結果論かもしれないが、”ともだち”は一番よくないタイミングで一番怒らせてはいけない相手を怒らせてしまったのだ。

 このあたりからカンナの超能力は、いよいよ研ぎ澄まされていき、物語も殺伐としたリアスティックなものから、回想シーンやヴァーチャル・アトラクションが頻出するファンタジックなものへと変質していくようだ。それはそれで有りがたい。最後まで殺し合いが続いたんじゃ、こちらもやりきれないですし。



(この稿おわり)






縦一列のアサガオ (2013年6月22日撮影)


















































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