おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

遊びの決着 (20世紀少年 第538回)

 第16集の後半から第17集の前半にかけては、オッチョが見てきた多くの絶望と、カンナが経験した深い絶望が描かれていて気が重くなる。第2話の「多くのゼツボウ」にはオッチョ、神様、仁谷神父という百戦錬磨の中高年が集まるのだが、やはり皆さん今一つ元気がないな。

 このあと時代の閉塞感を打ち破るのはカンナのムチャであり、ケンヂの帰らなくちゃであり、キリコの人体実験であり、やっぱり遠藤家の血筋がものをいう漫画なのだ。キリコとケンヂの両親は普通の人たちにみえるが、もしや祖父母の代に規格外の大物がいて隔世遺伝したのかもしれぬ。


 久しぶりに少年時代のオッチョが出てくる。原っぱに建った立入禁止の看板を見上げるシーンは、第14集でヨシツネの回想にも出てきたが、あのときはケンヂとマルオも一緒だった。今回はオッチョ一人で、しかし両方とも通学用のバッグを抱えて通りかかったところをみると、秘密基地の原っぱは彼の通学路沿いにあって、だからこそ基地に選ばれたのかもしれない。

 大阪万博が終わって進歩と調和の熱気も冷めた1970年の冬。神様は「俺がお前たちを追い出したんだ。悪いことしたな、俺を恨んでいるか」とオッチョに語っている。追い出したあとは、いま二人が姉弟を待っているようなボウリング場が建った。神様の解釈では、今のこの世の中はあの秘密基地から始まったのだが、遊びの決着がつく前に自分が潰したと自責の念まで抱いている様子である。


 基地で”ともだち”と一緒に遊んだわけではないのだから、そんなことはないのだが、そんなことありませんと素直に慰めるオッチョではない。恨むも何も良く覚えていない、何も思わなかったのかもしれないとオッチョは神様に語っている。誰でもそうだろう。子供の時代は、いつのまにか気付く間もなく終わっている。強烈に懐かしくなる時が来るとしたら、人生も折り返し地点を過ぎて久しいところまで来ていることだろう。

 俺がケンヂに音楽を教えたらしいが、俺はすぐに映画のほうが好きになったとオッチョが言っているのが興味深い。私の知る限り、オッチョがケンヂに教えたのは、正確には音楽というよりFENである。FENは音楽番組だけではなく、ニュース番組も豊富であるため、アメリカ赴任が決まったとき私はFENで生の英語を勉強したが、ロックは流れてこなかったように思うな。


 それに、あのとき初めてストーンズを聴いたケンヂは、そのやかましさに驚きつつ「ひでえ音だな」と言っているし、そのときは良いとは思わなかったとも述懐している。まだGSのファンだったしね。ともあれ、オッチョがFENをかけなくても、いずれケンヂは自らロックに目覚めたのではないか。

 それよりもオッチョの功績が大きかったのは、ケンヂにウッドストックの話をしてきかせたことではないだろうか。20世紀最大の奇跡、愛と平和の祭典は、中村の兄ちゃんからオッチョを経てカンナに伝わりコンチを動かした。最初の中村氏と最後の今野氏のほうが、カンナの部屋飾りよりも、よほど60年代のヒッピー風なのには笑える。ちなみに、オッチョの映画好きの話題は「大脱走」で出て来た。ケンヂは「ゴジラの息子」、格調が違う。


 いま時代は、少年のころオッチョが一時中止したままラブ&ピースとは程遠い。それにオッチョが語る彼の前半生は、私のそれとそっくりで実に冴えない。バスケ部に入りそれなりにやったが受験勉強で中断、当然のようにいい学校いい商社。「そんな男がなぜ修行の道に入った」と神様は鋭く尋ねた。

 「息子が死んだんだ。俺はあのとき一度、死んだ」とオッチョは率直に答えている。神様は「そういうのを成長っていうんだよ」と言い添えているが、ちょっと言葉足らずではないかな。オッチョが立ち直って、さらに強くなったからこそ言える言葉である。親しい人を失くして自分も死んだような気分になった人は無数にいるはずだし、しかし誰も彼もが立ち直れるわけではない。成長し切れずに失意のまま残りの人生を過ごす人もいる。


 神様は自分が口にした成長という言葉に、気付いたところがあったらしい。さっき俺は間違ったことを言ったと訂正をしている。「ガキの遊びに決着なんてねえ。忘れて次にいくのが、大人になるってことだ。」と神様は言う。ここでようやく笑顔を見せて、そういう自分がボウリングブームを待ってると言うが、神様、ガキの遊びの延長ではないでしょう。自分と”ともだち”を一緒にしてはいけない。

 ちょうどそこにカツオが戻ってきた件は前回に触れた。仁谷神父は教会のヴァンでカツオを連れてきたらしい。ともだち暦3年の東京は車さえ殆ど走っていない。その貴重品に神様とオッチョも載せてもらって、彼らは教会に向かっているのであろう。


 神様は自慢げであり、自分が言った通り、”ともだち”は教会に手を出せねえと威張っている。オッチョは相手にせず、サナエはどこだと弟に訊いた。神父がカツオに代って、彼女が氷の女王に会いに行ったことを伝えている。早くもオッチョの最重要人物の居場所が分かったのだ。

 車をそちらへと逸るオッチョだが、外は敵だらけだし私の部下(つまり、マフィアなんだけど...)がすでにそちらに向かっていると神父は諭している。「これ以上の犠牲はもうたくさんだ」と言うオッチョに、さすがは聖職者、「あなたは壁の向こうで多くの絶望を見てきた、そうですね」と察している。


 「多くのゼツボウって何?」とカツオの健全な好奇心は衰えていない。さすがのグレート・アントニオ・猪木も、うつむいたまま無言である。彼が見たものは少し先の第5話に出てくる。待ちたくないが待とう。

 その前に物語は、姉貴サナエの後を追う。彼女もマンホールから外に出た。幸い弟よりラッキーで危ない目に遭うこともなく、曙橋のそば処「喜楽庵」はすぐに見つかったようだ。氷の女王のアジトの入り口。のれんが下がっているから開店中だ。





(この稿おわり)





私が6年間、通った竜南小学校と、その裏を流れる十二双川。当時の面影はほとんど全く残っていないが、少子化のこのご時世、卒業校が残っているだけでも幸せなのだろう。
(2012年10月21日、静岡にて撮影)
















































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