おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

命が危ないと思ったら (20世紀少年 第588回)

 第18集の58ページ目。カンナの口から王曉鋒とチャイポンの最期を聴かされたオッチョは無言のまま立ち尽くしている。カンナはみんなが自分にワクチンを打たせるために大芝居を演じたといいながらも、本当は自分は打ちたかった、「あたしは自分一人だけ生きたかったからワクチンをうったの」とひどく自分を責めている。

 オッチョは黙って聴いているだけだが、私はしつこい。マフィアたちとワクチンで「乾杯」したときは、彼女はみんながニセモノを注射したとはまだ知らない。だからその場に限って言えば、カンナは自分ひとりだけ生きたいと思いながらワクチンを接種したのではない。


 むしろ、チャイポンから真相を聞いたあとで、カンナは内心忸怩たるものがあったのだろう。王曉鋒やチャイポンが死んだのは、ともだち暦元年。カンナはまだマフィアのメンバー数が目立って減るほどの被害を彼らが受けていることを知らなかったのだから、ウィルスがばらまかれてからそれほど時間が経っていない。

 おそらく、そのころ彼女は身の回りで無数の人々がウィルスにやられ、あるいはその後の東京の隔離や強制移住に反抗して政府にやられるのを見ていたはずだ。かつての仲間も再び散り散りになった。そんな状況下で、いわば言われるがままにワクチンを打ったときの心情が、今も心の傷として残っているのだろう。その後、彼女の下に集まった若者たちも、すべてがワクチンを打っているとは思えない。中には犠牲者が出たかもしれない。


 そんなカンナにオッチョおじさんは、おまえたちも8月20日武装蜂起したら彼らの二の舞だと言う。カンナの背中は何も応えない。プロの戦闘集団のマフィアでさえ、ニュースになるほどのことさえ達成できなかったのだ。武器と戦意は軍事力の二大要素だが、それだけでは勝てないことを二人とも知っている。

 おまえの一言で武装蜂起を止められないのであれば、おまえはリーダーでも何でもないとオッチョは厳しい。かつて私は或る経営者の講演で、人の上に立つものは主導力(リーダーシップ)と管理(マネ―ジメント)の能力の両者が必要であるという話を聞いた。


 会社に勤めている場合、ある程度の経験と実績を積めば、本人の好き嫌いにお構いなく管理職になるのが通常である。自戒と反省をこめていえば、管理職もある程度がんばれば務まるものだが、それは天性の管理能力によるものというより、組織から人事権(指揮命令権とか人事評価権とか)を与えられているから成り立っているのをつい忘れる。ましてやリーダーシップというものは辞令で自然発生するものではない。

 ずっと前にヨシツネに隊長の資格があるかという文章を延々と書いたので、ここで詳しくは繰り返さないが、死地にあっても部下が惜しまず命を捧げるのがリーダーというものであり、あるいは、皆が大目標にしているものを場合によっては取り下げるよう説得する力もないようなら、ピーター・ドラッカーが認めてれくるような経営者ではなく、せいぜい野球部のマネージャーでもやってろというのがオッチョの言い分であろうか。


 反応のないカンナに向かって、さらにオッチョはこう言っている。「命が危ないと思ったら、一目散に逃げろと言った男がいた」と。はっとするカンナであったが、オッチョおじさんは更に「お前の中でその男は生きているはずだ」と念を押した後で、妙なことを言い出した。「いや、その男は、本当に生きているかもしれない」。

 ちょっと第5集に戻ってみたい。迫りくる大晦日を前にケンヂたちの地下活動は難航した。”ともだち”も友民党も確たる動きを見せず、これといった情報も入って来ない。疲れを見せ始めているメンバーを前に、ケンヂは「なあ、みんな、もうやめよう」と74ページで言っている。みんなが何らかの反応の示す前に「のろし」が上がってそれどころではなくなったため、この場面だけではケンヂのリーダーシップの軽重は測りかねる。


 迎えた2000年12月31日の夜、巨大ロボットが出現した後の107ページ目、ダイナマイトと拳銃の準備が終わったときに、ケンヂは「抜けたい奴は今からでも...」と語り出したが、抜けるなら一番最初に抜けそうなヨシツネに「その話はもういいよ」と言われてしまい、他のみんなも静かにケンヂを見つめているばかり。

 脱落者なしと決まった。その続きのスピ―チが「ムチャはしないでくれ」であり、「一目散に逃げてくれ」であり、「頼むからみんな死なないでくれ」という例の宣戦布告だった。これにより決意を新たにした様子の者あり、聞き流しているオッチョあり、何それという顔のユキジあり、ともあれ彼らはケンヂのリーダーシップに賭けたのだ。


 ムチャするなという命令を破ったのはそう語った本人だけといってもよく、大半のメンバーは一目散かどうかはともかくとして、逃げて死なずに済んだ。問題はオッチョである。どうして選りによってなぜこの「ワン・マン・アーミー」だけが逮捕されたのか不思議に思っていたのだが、要は一目散に逃げるどころか爆発現場に向かったに違いない。

 彼はケンヂを探したのだろう。そして万策尽き、捕まったに違いない。第7巻の23ページ目に、オッチョが漫画家角田氏に伝えたケンヂの言葉が出てくる。巨大ロボットに乗り込まんとするケンヂは、不本意にも甲州街道に転落したオッチョに一言だけ挨拶している。


 それは私が「20世紀少年」で一番好きな台詞だ。「じゃあな、オッチョ。ちょっと行ってくらあ」とケンヂは言った。この言葉はフェアウェルやアデューとは違い、オールボアールやシー・ユー・アゲインと同じであって、そのうちまた会おうという意味である。こんな挨拶を残されて、現場から逃げ出すオッチョではない。

 おまけに、「一目散に逃げてくれ」には前提条件があり、「自分の命が危ないと思ったら」という場合を想定しており、読者の知るオッチョは自分の命が危ないと思うような出来具合の人物ではないのだ。血の大みそかのケンヂの言葉を繰り返えされてはカンナも反論できない。このため、彼女は「生きているかもしれない」に噛みついた。



(この項おわり)




かつて富士山には電信柱や屋根瓦が似合うというようなことを書きました。
静岡市に限って言えば、似合うかどうかはともかく、そういう風景が日常的なのです。
(2012年の大みそか、実家のそばで撮影)














































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