今年(2012年 )は、ローリング・ストーンズの結成50周年であるとともに、ビートルズのメジャー・デビュー50周年でもあるらしい。ストーンズの半世紀は掛け値なしの壮挙である。ジジイになってもロックをやってる凄い奴らと言えば、ストーンズを措いて他にない。
しかし、ビートルズのほうは、商魂たくましいと感じるばかりだ。わずか8年ほどでバンドは活動を止めた。レノン=マッカートニーは、二度と同じステージに立たなかった。ストーンズには限りない可能性が残されているが、ビートルズには作品と思い出しか残っていない。この差は大きい。もう40年近くビートルズのファンをやっている私が言うのだから間違いない。きっと。
さて、今回は読書を一休み。もう1年半ほど前になるか、遅ればせながら初めて「20世紀少年」の全巻を読み、レンタルCDを観たあとで、幾つかのネット書店や映画サイトで、例のカスタマーレビューなどとやらを読んだことがある。
この作品に限らず、私はこういうレビューの内容を全く信用しないのだが(過度の賛辞や罵りが多すぎて、買おうかどうか迷っているエンド・ユーザーには有害だなと感じる)、敢えて言えば、たくさん読むとある程度、感想・批判の共通部分が分かるという点では便利である。
それらのうち、「20世紀少年」は面白くない、駄作であるという書き込みの主な指摘としては、おおむね次のようなものが多かったように思う。
(1) 前半は面白いが、後半はだれる。
(2) 「21世紀少年」のエンディングは訳が分からん。
(3) 伏線が回収されていない。
(4) カンナに魅力がない。
このうち、(1)については前回も触れたとおり、確かに読むのがしんどい場面も少なくないから、活劇を期待する人にはつまらないだろうし、(2)にも関連するが、犯人捜しの楽しみも前半のような盛り上がりに欠けるので、こういう不満が出てくるのも仕方ないかなと思う。
(1)や(2)については、娯楽作品なのだから好き好きだと申し上げます。黙れとも間違っているとも決して言いません(でも、匿名で罵詈雑言はやめようよ)。他方、(3)には強い違和感がある。長くなるので今日は詳しく触れないが、そもそも「伏線を回収する」などという日本語は前は無かったし、伏線は回収するためにあるのでもない。
今回のテーマは、(4)のカンナ批判です。彼女のファンも多いようなので、かなり指示・不支持が分かれる登場人物なのだ。確かにカンナは、柔のように明るい娘でもなく、ジャネットのような大人の女の色香を持ち合わせているわけでもない。
この点についても、彼女は気の毒な境遇なのだから受け止めてやろうなどとは申しません。好みの問題に口は出さない。確かに絵で見ても、喜楽庵事件の日から、ケンヂ生存の希望が持てるようになるまで、カンナは氷の女王と呼ばれてもしかたがない存在なのだから。
17歳以降は戦う女として登場し、父も母も普通の人物ではないし、親代わりに育ててくれたおじちゃんは死ぬしで、カンナの青春は過酷な日々ばかり。当然、言動も荒れる。表情も硬い。戦うヒロインも常にチャーミングでなければならないという趣味の方は、キューティーハニーか(古いな)、セーラームーン(これでも古いすか)でもご覧いただければ宜しい。
1986年、アメリカに赴任する直前、新人作家、安倍譲二のデビュー作「塀の中の懲りない面々」というユニークな本がベストセラーになった。早速買って読んだ初版の単行本を今も持っている。安倍さんはかつて極道を歩む男であったが、悪運尽きて実刑判決を受け、刑務所でお勤めを果たしてから作家を志し、山本夏彦に見い出された。
詳しい経歴はご本人のオフィシャルサイトに履歴書が載っているしウェブにも詳しい。著者が暮らした塀の中とは、府中刑務所ことのである。府中といえば浦沢さんご生誕の地であり、サダキヨの引っ越し先であり、ヴァーチャル・アトラクションの中でケンヂが犯人呼ばわりされた三億円事件も、この府中刑務所のすぐそばで起きた。
安倍さんはオッチョのように独房に押し込められたままではなかったため、「塀の中の懲りない面々」には他の服役者と掛け合い振りが賑やかに生々しく描かれている。暖房がなくて、ものすごく寒かったそうだ。楽しい逸話の一つに、ダックスフントのケンジの話が出てくるのだが、これは長くなるのでここでは諦める。
この作品には読者、特に子供を育てたことのある読者なら生涯、忘れられないであろうエピソードが出てくる。囚人の中に、「根拠のない決めつけんばかりの理屈を偉そうに」しゃべり続ける困った年寄りがいて、著者は「老エゴイスト」と名付け、当時の嫌な思い出を散々書いたあとで、その章の最後にこういう体験談を披露している。なお、著者はムショ暮らしの自分の親不孝をひそかに恥じている様子。
(以下、引用)
爺さんは最後にこんな、なんとも言えないようなことをいったのです。
「あのな、親孝行なんてことも、しないだっていいということさえ、誰も知らんのだ」
ヤヤっと、それが常日頃私の気を重くしていたことだったにしても、思わず首を突き出してしまったのは、どうにも情けないことでした。
「親孝行なんて、誰でもとっくに一生の分が充分すんでいるのに、誰も知りもしない。誰でも、生まれたときから五つの年齢までの、あの可愛らしさで、たっぷり一生分の親孝行は済んでいるのさ、五つまでの可愛さでな」
スゴイと、私は一瞬思ったのです。
引用おわり。「親孝行、したいときには親はなし」と言い続け、親孝行の強制に熱心だった我が母に感想を尋ねてみたいものだな。これを読んでから数年後、私に長男が生まれ、生後半年ほどになったときに私はこの一節を思い出して、五年どころか半年でも充分だと心の底からそう思った。今もその気持ちは変わらない。
赤ん坊時代のカンナは栄養がよくてヤン坊マー坊のように太っており、しかもよく怒るので手放しで美形とほめることができるかどうか微妙だが、ケロヨンの披露宴の二次会、禁断のカラオケでガッチャマンなど唄い、帰って来たヨッパライのケンヂを迎えるシーンは可愛い。
このときのカンナは「ぶー」(意味不明)と言いながら、礼服姿で畳の上に倒れこんだケンヂおじちゃんの左手の指で遊んでいる。「カンナ、昔はなあ、カチンコチンだったんだぞ、俺の左指...」とケンヂは山口との会話を思い出しながら姪に声をかけている。再び「ぶー」とカンナは言った。
3歳になったカンナは文句なしに可愛らしい。私が特に気に入っている彼女の絵は、第5集49ページ目の上段に出てくる。ケンヂおじちゃんに「なあ、カンナ」と呼ばれて、「ん?」と返事をしているカンナ。○龍の帰り道、一番街商店街。その次に出てくる笑顔もいい。
その日まで、人からみればどんなに辛かったかと思う地下道での生活さえ、平和で幸せだったと思い出すことがあったかもしれないほどの厳しいな毎日が、この次の瞬間から始まる。でもすでに、充分、育ての親孝行をカンナは務めている。
(この稿おわり)
アメリカでは11月の第4木曜日に感謝祭があり、それが終わるとクリスマス・シーズンを迎える。
(2012年11月5日撮影)
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