おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

思春期の青少年 (20世紀少年 第852回)

 下巻の25ページ。息を切らせて「なんなんだここは」とぼやきながらニセの故郷の道を歩いてきたケンヂは、とうとう神社の前で立ち止まってしまい、石壁にもたれかかって「くそ〜」と言った。まだノッペラボウの衝撃から立ち直っていないご様子。

 彼は「現実のようで現実じゃねえ」と表現してから「当たり前か」と言った。国連のプロファイラーには、あんたたちが言っても意味わかんねえよと啖呵を切っての旅立ちであったが、彼自身も「結局弄ばれているだけ」と自覚したようで神社の壁に八つ当たりしている。

 ケンヂはどうやらまだ冷や汗を流しているようだ。そんなに時間的余裕はない。それなのに「ここにはここのルールと辻褄がある」ことを知らされ、どうすりゃいいんだと天を仰ぐ。すると天から来た助けは、先ほど彼が「マヌケ面」と評した少年時代の自分のCGだった。どうしてそうなったかというと...。


 運転席にマルオ、助手席にカンナ。リアシートに蝶野と中佐。ヴァンは一路、ケンヂがヴァーチャル・アトラクションに入っている”ともだち”府に向かっている。カンナはサダキヨ情報をマルオに伝え、リモコンが秘密基地にあるという情報の意味をケンヂに訊きに行こうとしているのだ。

 マルオは基地と言われても俺には何のことだかさっぱり分からないと言う。そしてケンヂだってと言いかけたところで、自ら否定し、あいつなら何か知っている気がすると言い直した。円盤墜落の夜、マルオはケンヂが悪者呼ばわりされながらも”ともだち”に謝り、サダキヨと”ともだち”の両方に「もう止めよう」と言ったのを目撃しているのだ。


 メイヤー中佐は”ともだち”府には入れやしないぞと態度が大きい。あんたが人質なら入れると蝶野が言い返した途端、マルオは急ブレーキをかけて「もう非常線を張ってやがる」と車のハンドルを叩いた。みれば国連軍の装甲車と警視庁のパトカーがずらり横並びで道を塞いでいる。

 蝶野は自分たちでなければ反陽子ばくだんを処理できないと説得を試みるが、中佐はまた訳のわからない能力とやらで世界中を騙そうとしているのか、「この”ともだち”の悪魔の娘が」と悪態をついて、マルオと蝶野の怒りを買った。


 そのとき娘は口喧嘩に参加せず「どうしたらいいの、ケンヂおじちゃん」と小さな声で独り言を繰り出し始めている。困ったときのケンヂ頼み。助けて、お願い、聞こえる? 中佐は忌まわしい悪魔の呪文が始まったと嗤う。カンナは意に介さず、「ケンヂおじちゃん!」と叫んだ。

 この声が何故かヴァーチャル・アトラクションのケンヂ少年に届いた。再び彼は眠っている最中にカンナの声で起こされたのだ。場所は遠藤酒店の2階にある同じ部屋だが、前回は1971年8月31日でケンヂは夏風邪にやられ氷枕をしていた。今回はその1年ほど前である。

 片耳だけのイヤフォンが付いたトランジスタラジオ。最後の屋上シーンにも出てくる。野球のグローブとボール。机の上にミニカー。枕元の小箱に少年マガジンが並んでいる。秘密基地が出来上がったとき、ケンヂはマガジンを、マルオはサンデーを持ってくると役割分担を決めたのだった。


 少年は寝ぼけ眼で「誰か呼んだ〜?」とつぶやいたが、部屋には誰もいない。そこでようやく夢の中に女の人が出てきて伝言を託されたのを思い出したらしい。彼女は「サングラスかけたヒゲのケンヂ」にメッセージを伝えるよう頼んだ。それは少年が少し前にヒゲのおじさんと語り合った反陽子ばくだんに関わるものであった。

 そこで彼は夜が明けるや否や、おじさんを捜しに出かけた様子である。まずは以前、出あった神社に行ったのが正解で、大人のケンヂはあのあとで、その場にへたり込んで寝入ってしまったらしい。少年は大人を起こして大変だと急を告げる。夢の中に女の人が出てきたと状況説明から入った。


 ケンヂはあくびの顔で「また」スケベな夢でも見たんだろうと相手にしようとしない。勝手知ったる自分の過去、思い当たる節も数々あろう。「よくあるよ、思春期の青少年には」と解説も加えている。よくあったかなあ、思春期に。英単語「adolescence」は、青年期または思春期と訳される。

 その昔、何歳も年上の上司がもう間もなく四十歳だというのに(だからこそ、というべきか)、その当時なぜか話題になっていたサミエル・ウルマンの「青春の詩」に感化され、毎日のように青春、青春と唱えるのに辟易した。青春とは心の在り方をいうのだ云々。

 何でも話せる良い上司だったので、恥ずかし気もなく「青春」という言葉を口に出せるようになったなら青春は終わっていますと伝えて黙ってもらった。拓郎も「青春は二度とは帰って来ない」と歌っているのだ。森田公一も「青春時代が夢なんて後からほのぼの思うもの」と歌っているのだ。


 ウルマンの詩の原題は「Youth」(若さ)であるから、青春という一般的には人生の或る時期を指す言葉を使うのは苦しいように思う。詩の内容からして上司の解釈は間違いとは云えない感じで、むしろ訳語のほうに無理がある。詩にいわく、人は年月と共にのみ年を取るのではない。夢を一つ捨てるたびに老いていく。らしい。

 先般「赤き血のイレブン」を批判したままなので、少し後味が良くない。私にとってテレビのサッカー番組といえば「飛び出せ!青春」である。青い三角定規によれば、青春は太陽がくれた季節。こちらのほうが、理屈っぽくなくて良いわね。さて、夢に出てきた女の人の名はカンナだと聞かされて、ケンヂは目が醒めた。




(この稿おわり)





神社の石塀って全国統一規格でもあるのだろうか。
(千住の素盞雄神社にて、2014年2月5日撮影)





 スポーツこそ男の根性づくりだ
 やれサッカー やれ野球
 一年中真っ黒 ああ それが青春

                   「青春の詩」  よしだたくろう






 そう、ここは僕の場所でもない。言葉はいつか消え去り、夢はいつか崩れ去るだろう。あの永遠に続くようにも思えた退屈なアドレセンスが何処かで消え失せてしまったように。

     村上春樹  「中国行きのスロウ・ボート」より   














































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