おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

疑問点の整理 (20世紀少年 第511回)

 今日はちょっとストーリーから外れます。最初に、「20世紀少年」とは全く関係のない話題から。先日テレビで、多くの中学生たちは、メールの最初の行に、一文字だけ残らないように気を付けて文章を書いているというような報道をみた。今どきの中学生も大変だなと思う。

 私は一文字ぐらいなら気にならないが、さすがに行の最初に句読点が来るのは日本語の流儀に反するので、そうならないように注意している。ところが、この「はてな」のブログは、「下書き」の時点でその工夫をしても、なぜか「公開」すると、ずれてしまう。公開した後で編集し直している。面倒です。

 しかも最近、iPadを買って使い始めてから気付いたのだが、私のノート・パソコンと比べて、iPadの画面は一行の文字数がちょっと少ないので、iPadで読むと文頭が句読点だらけという日もある。これは調整可能なのかもしれないが、私の知識と技術では無理。全国の中学生と私のために、はみ出た句読点を文末に格納する機能を開発してもらえないものか。
 

 さて、カツオ一家の話に入る前に、これまで問題を先延ばしにしたり、適当に書き散らしてきた私なりの疑問点を整理してみたくなった。というのも、第16集の前半まで読めば、フクベエがなぜ”ともだち”になり、なぜ、あのようなことをしたのか、うまく考えがまとまると思ってきたのだが、そうは問屋が卸さなかったのです。

 このブログの開始時点でも書いたのだけれど、この感想文を書き終えるまでは、他の読者の感想や意見に影響されることがないように、他の「20世紀少年」のブログや書評を読むのを止めるという決断をした。これは、結構、つらいのです。悩んでいるときは誰かの知恵をお借りして、早くすっきりしたいのは当然のこと。


 とはいえ感想文を志した以上、「この人と同じ考えです。」では私の気が済まない。自分で感じたことや考えたことを書かなければ、作品に会わせる顔がない。というわけで、以下、これから検討し、整理したい疑問点の幾つかを挙げますが、とっくにどこかの誰かが解決しているものばかりかもしれない。

 そして、大半の読者がそれに同意しているならば、私がそれとは異なる結論を出したとき、遅れてきたうえに見当はずれという滑稽きわまることになるのだが一向に構わない。感想文として駄作だったとしても、小欄は感想文であるとともに自分の半生記でもあるので、きっと身内には多少の意味を持つだろう。


 私の理解では、この物語には、二人の”ともだち”が出てきて、一人は2015年に山根に射殺され、もう一人はともだち暦3年に円盤事故に巻き込まれて死んだ。二人の顔は、大勢の目撃者によると瓜二つである。しかも、姿や声まで似ていると、その片方の妻だったキリコの証言がある。

 2015年に死んだ方がフクベエという前提で、これまで書いてきた。だが、同じ顔なのだから、そう簡単に決めてよいものかどうか、もう一度しつこく考えながら読み進めたい。ともだち暦の”ともだち”がフクベエでないことは、キリコとカンナの証言を信じるが、でも、1997年と2000年に出て来て、「フクベエ」と呼ばれた男はどちらなのか。


 確かに、2015年に死んだ方は忍者ハットリくんのお面にこだわっているようであり、ともだち暦3年に滅びたほうは、バッヂにこだわりがあるらしい。その点では、少年時代の描写からして前者がフクベエであると考えるのが自然である。

 でも、例えば、T-REXの「20th Century Boy」はどうか。この曲に関心を持っていたのは、後にカンナに自分こそが20世紀少年だと名乗る後半の”ともだち”だし、「21世紀少年」のヴァーチャル・アトラクションで、ナショナル・キッドのお面をかぶっていたほうである。

 フクベエ少年が「20世紀少年」の歌に関わりがあったという形跡はない。ではなぜ、「フクベエ」が持っていた1997年のクラス会の後のCDや、2000年の大みそかのカセットに、この曲が入っているのだろう。


 すでに触れてきたことでもあるが、子供時代にナショナルキッドのお面をかぶっているのが、サダキヨなのか、そうでない者なのかも気になる。気になる理由は、”ともだち”が誰だったのか(名前が何だったのか)という犯人捜し自体よりも、”ともだち”が何故こんなことをしたのかという観点から考えたいからです。

 漫画「20世紀少年」は、活劇としても、ミステリーとしても、ファンタジックなSFとしても、コメディーとしても楽しめる総合娯楽作品ともいうべきものだと思うが、同時に、あくまで私個人の読み方ながら、心理劇として純文学的に読みたい。犯人は子供のままだったとか、変態・狂人だったとかいうような、片づけ方をしたくないと思っている。彼らはなぜ、人類に対して、あるいはケンヂ個人に対して、あそこまでやらなければならなかったか。100%の悪なのか。


 冒頭で、他の人のブログや書評を読むのを自らに禁じたと書いたが、正確に正直に言うと、単行本全巻を読了後に、このブログを書き始めるまで、多少、ネット情報に目を通している。少なからずの連載時の読者が、「21世紀少年」の終わり方に疑問や不満を持っていた様子であった。

 率直に言って、私もいまだに、すっきりしない。少なくとも上に掲げた疑問を、自分なりに消化吸収しないと、十分に楽しめなかったのではないかという贅沢にして不本意な読後感が残ってしまう恐れがある。それに、心理劇・純文学的にも読むのならば、作者は何のために、これを書いたのかという問題も考えたほうがいい。せっかくなら充分に、味わいつくし楽しみ切って終わりたいので、がんばります。



(この稿おわり)




生まれ故郷にある駿府城祉のお堀端 (2012年10月19日)



































































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