おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

下宿館 (20世紀少年 510回)

 第16集の123ページは、「ヤッくん、ごはんよー」という声から始まる。こういうふうに誰かの家族が呼びに来るまで、私たちは原っぱや田んぼで遊んでいたのだ。前に引用したブルース・スプリングスティーンの「No Surrender」にも、うちに帰っておいでと呼ぶ姉さんたちの声が聞こえるという歌詞が出てくる。

 次の「ターケヤ、サオダケ―」については、近ごろベストセラーのタイトルにもなったとおり、信じがたいことに全滅していないらしい。先週も、その声その節を聞いた。さお竹は古くなると、かつては私たちの竹馬としてリサイクルされるのであった。


 その次の「カエルが鳴くからかーえろ」は、いかにも夕暮れ時らしい短調のきれいなフレーズで、帰宅する必要があるのは、たぶん雨が降るからではなく、蛙が暗くなると鳴き始めるからだと思う。これを唄うカツオら男の子たちは、みんな下着のシャツ姿であり、ケロヨンやオッチョの少年時代よりも親の所得水準が明らかに低い。

 街頭テレビでプロレスを観ようと誘われたカツオは、ちょっと困った表情で、夕ごはんだから帰らなくてはと断っている。彼は晩飯時にやらなければならない大事な使命があるのだが、友達にも言えない事情があるのだ。断られたほうは、カツオの付き合いが悪くなったのも、彼の家が最近テレビを買ったからだと解釈した。父ちゃんがポンコツをもらったのだとカツオは反論している。


 テレビの放送が始まったのは、私が生まれる前だが、一般家庭にテレビの受信機が普及したのは、統計資料を見たことがないけれど、1959年の皇太子ご成婚がきっかけだったと信じられている。ちなみに、フクベエ少年の部屋にペナントが飾ってあった東京タワーがテレビ塔として開業したのが1958年。今も昔もタワーは観光名所だ。

 私が幼かった1960年代は、すでに周囲の殆どの家庭にテレビが一台あったが、カラーテレビは、一番裕福な親戚の家だけだったのを今でも覚えている。わが家にカラーテレビが導入されたのは、引っ越しと同時だったので記憶しているのだが1970年のこと。大阪万博の最中だった。なお、日本最古の携帯電話は、大阪万博で披露されたらしい。2000年ごろの一時期、ケータイの電話機は過当競争で無料になり、帰国したオッチョを驚かせている。隔世の観あり。


 カツオが家路を急いで駆け抜けていく路地に、「下宿 大山館」という看板がかかっている。学生相手の下宿という業種は、今もあるのだろうか? 少なくとも、ここ東京では親元離れて大学などに通う若者は、どうやらワンルーム・マンションに住んでいる様子である。

 下宿とは畳敷きで風呂なし、水道と便所は共用、電気はあるがガスは無く、電話は呼び出し、エアコンなど夢のまた夢。それが私たちの時代の、多くの学生の暮らし振りだった。私は京都で学生時代の4年間を過ごしたが、夏は暑いし冬は底冷えが厳しく、当時は若かったから生き抜いたものの、今では一年と持つまい。京都の人は余所者に冷たいと聞いていたが、少なくとも下宿人やアルバイトの学生には、とても親切で優しく、一度も嫌な思いをしたことがない。


 「大山館」は、ずっと前にも話題にしたが、1970年ごろ週刊少年マガジンに連載されていた松本零士作「男おいどん」の主人公、大山昇太に由来する。ここに断言して宜しい。彼が住んでいた「下宿館」のばあさんと、ラーメン屋のおじさんは人物ができていた。私の倫理観、価値観は、彼らの影響を受けている。今も私の実家に単行本がそろっていて、ときどき読む。

 カツオ一家の家族構成は、彼と姉、ご両親、じいちゃんの5人。このじいちゃんが、なかなかいい味を出しており、孫のカツオとのコンビネーションも問題なし。何だかんだと言い合いながら、陰惨極まる「ともだち暦」時代の荒波を乗り越えていくことになる。




(この稿おわり)




下宿館の大山昇太










 



































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