おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

”ともだち” (20世紀少年 第889回)

 ページ順で書いていた最後の頃は、どうも細部にこだわり過ぎたようで木を見て森を見ず。あれでは感想文というより漫画文献学みたいになっていた感じがする。もう少し全体的な読後感を書きたくなった。例によって、とりとめもないが。

 だいたい、最初のころ「”ともだち”が誰かはこだわらない」と宣言しておきながら、最後はつい謎解きしようと気負ってしもうた。本来は私にとって”ともだち”は誰でも良かった。一言で乱暴にいってしまえば、引き立て役なのだから。


 本作は初期のゴジラ映画とは本質的に違うのだ。「ルパン三世」や「ゴルゴ13」のような刑事犯が主人公のマンガとも違う。あくまで主人公は秘密基地の仲間とカンナ、つまり漫画的な「正義の味方」なのだから。ユキジの言葉を借りる。

 荒唐無稽なようでも、私が見たいのは、地球の平和を守るような男のドラマです。そのドラマの幕を開けたのはドンキーだった。お前しかいない。地球を救え。つまり、愛では地球を救えないか。

 ヒーローのケンヂは冴えないおっさんであり、ヨシツネもマルオも同様である。オッチョやユキジやカンナは個々の戦闘能力に優れていても、彼らが全員、集まったとて巨悪を前にすれば蟷螂の斧である。でも張り切った。


 子供のころ「マグマ大使」や「鉄人28号」やウルトラ・シリーズで子供が活躍するのを見て、あるいは「宝島」や「十五少年漂流記」を読んで子供が冒険するのを楽しんだのと同様、私にとっての「20世紀少年」は、「登場人物が羨ましいな」と感じつつ、同世代が頑張るのが面白くて読んだ漫画だった。このあたり若い読者層とは読み方が違って当然のところなのだろう。

 無実の罪とイジメに遭って人生を狂わせたらしいカツマタ君に共感して読むのも自由である。特にご自身が悲惨なイジメ体験を持つ読者であれば、複雑な気持ちで読み終えることもあるだろう。でも私にはどうしても、そういうふうには読めなかったし読もうともしなかった。イジメだけなら、サダキヨだってドンキーだって受けていたのだ。

 
 本作は連載開始当初から、どこの誰だか分からない悪と闘い続けなければならないという設定で描かれている。その連中が実は学校も学年も同じだったというのが本作の特徴だが、それは重要だけれど味付けみたいなものであって、その連中が誰だったかというのは極論するとケンヂ一人にとっての大問題に過ぎない。

 それでも前半は、「よげんの書」を書いた仲間という共通項があったので基地の仲間は皆して立ち上がった。ただし、ケンヂの言動をみれば最後は彼が自分一人で決着をつけようとしていたのは明らかだ。命が危なくなったら逃げてくれなんだから。ロボットにも一人で乗り込んだし。悪にとっても関心の的はケンヂ一人と言って過言ではあるまい。秘密基地の他のメンバーは平気で”絶交”し、あるいはしようとした。


 チョーさんメモが正しければ、”ともだち”は初期から複数なのであり、キリコやケンヂの推測が正しければ少なくともフクベエとカツマタ君がその正体だ。フクベエは登場回数も多いし、少年時代も相応に描かれているので、まだしも分かりやすい。

 特に、彼は客寄せの才能があり、万丈目はそれに惹かれて云わば共同経営者になったのであり、彼のみならずヤマさんや13番にとってはフクベエだけが本物の”ともだち”であった。今となっては何とやらになったにしてもだ。


 それに対して「カツマタ君」は殆ど最初から最後まで死んだ人だった。意図的に登場させないという方法で描かれた人物である。彼についての情報は極めて少ない。フナの解剖の前夜に亡くなって幽霊になったという噂。少年時代のフクベエが彼を知っていたこと。

 それだけだろう。すり替わった”ともだち”が西暦を終わらせたり、フクベエと同じ顔だったり、ケンヂに個人的な怨恨を持っていたり、どうやら中学生のとき飛び降りをしようとしたらしいという話題の量はフクベエと比べても、ずっと少ない。そして、この話題と名前を結びつけたのはケンヂの記憶と想像に過ぎない。


 フクベエの場合はまだしも、キリコとカンナに対しては人間的な感情(俗っぽくいえば、未練かな)を持っていたような気配があるが、次に表に出て来た”ともだち”は、どうしようもなく心が乾き切っている。そんな男を最後の最後まで救おうとしたのもケンヂ一人である。さすが主人公。

 印象としてはこの二代目と比べれば、フクベエがケンヂ個人に対して、それほど陰険な感情を持っていたようには感じられない。この感想が見当はずれでなければ、フクベエの遊びの目的は「しんよげんの書」どおり万博の再現と世界大統領であり、他方で、最初からケンヂをテロリストに仕立て上げて「遊ぶ」という陰険な計画は、「カツマタ君」の構想によるものかもしれない。


 少なくとも、そういうふうにも読めると思う。私は浦沢さんの執筆動機を全く知らない。これから調べれば、どこかに書いてあるかもしれない。しかしこれは悪口ではないが、前にも書いたように漫画家に限らず役者も小説家も画家もスポーツ選手も、いわゆるクリエイティブな特殊技能を持ち、それを職業としている人たちが常に本当のことを言うと信じるほど私は若くはない。

 まして、個々の発言の真偽など、彼らの身近にいる訳でもないのに確かめようがない。もう作品は作者の手を離れているのだから、鑑賞のしかたはこちらの自由である。


 二三年前に自分がここで書いた内容と、最後の頃に書いたことがけっこう違っているが放置している。3年間の感想文ですらこうなのだから、8年間かけての創作であれば、途中で方向性や色合いが変わってきて来て当然だ。そして読者一人一人も変わりゆく。

 ネットを書き込みなどをざっと読んでいるところだが、前半のほう(フクベエ時代)が好きな人が多いようで、売れたから二人目の”ともだち”を書き足したのだろうという意見もあるが、先述のとおりで賛成しない。

 連載漫画の宿命で売れなかったら途中で止めた可能性はあったと思うが、接ぎ木はしていない。もうこれから同年代の漫画家が描く、同年代の活躍する漫画を読む機会はないだろう。感謝します。


 それはそうと数回前に、中学生ケンヂが「友達」と言っているのにナショナルキッドが”ともだち”と言っていることに対して「フクベエ病」の症状とあっさり片付けたが、果たしてそんなに単純なものか。この二人の「こだわり」は違うと跡継ぎの方が言っていたのを覚えている。


 この少年はすでに小学生時代から大人の僕にそそのかされて、反陽子ばんだんとやらで世界を滅ぼす白昼夢に浸っていたのであり、フクベエの「しんよげん」とは方針が違っていたはずなのだ。

 となれば屋上で、ナショナルキッドがケンヂを誘った「遊び」は、フクベエがケンヂのマネをした世界征服ではなく、やはり人類滅亡のほうなのだろう。

 そう思えば「世界をおわりにします」の放送時に、「ケンヂくん、遊びましょう」と締めくくったのも分かる。中学生のときは”ともだち”になる誘いに乗ってもらえなかったのだから。


 ヤマさんや田村マサオや万丈目がニセモノ扱いするものだから、私などもついサークル仲間の目で”ともだち”はフクベエが本物であり、後釜はニセモノと感じがちである。でもチョーさんは優劣をつけていない様子だった。しかも繰り返すが、フクベエにはケンヂを徹底的に極悪人テロリストにするほどの理由があったろうか。

 秘密基地の開会式でオッチョ少年はこう宣言している。このマークを知っている奴は、本当の友達だ。では、このマークのマスクをかぶっている奴が、本当の”ともだち”という考えはいかが。



(この稿おわり)





梅雨とくれば我が家では梅干しの準備。
(2014年5月20日撮影)




こちらはご近所の植え込み。
(同日撮影)










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 when we stand together as one.

        Cyndi Lauper, Kim Carnes, Huey Lewis




















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