おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

世田谷のこと (20世紀少年 第418回)

 理科室の水槽の「ブクブク」スイッチを誰が入れたのかという問題を先送りにしたままになっている。第14巻の150ページ目で理科室に入ったドンキーは、水槽に近寄ってスイッチを手に取るのだが、「スイッチ入ってる...モンちゃん、ちゃんと電源入れてたんだ」と言っている。

 だが、第1巻のモンちゃんの思い出話と、第12巻の山根の思い出話によれば、スイッチはドンキーが入れたことになっている。話が違う。なぜか。考えてみた結果を次回とその次の回に書いてみるのだが、ここで急いで付け加えると、答えは出なかった。しかも、私の理解では誰がスイッチを入れたとしても、物語の大筋にはまったく関係ないはずなのだが、せっかくだから。


 今日はその前に一つ、脱線話。かつて、ケンヂたちの生まれ育った商店街は、新宿区にあったのではないかという論を展開したのだが、確たる証拠もなかったので、正直言って都合の悪い情報は伏せた。その一つが、モンちゃんによる理科室の夜の思い出話が描かれている第1巻、ドンキーのお通夜の日に出てくる。

 ケンヂが御焼香に出かけようとしたとき、生前のドンキーが出した手紙が自宅に届いた。その封筒が98ページ目に出てくるのだが、私の老眼には遠藤家の住所が「世田谷」で始まっているように見える(郵便番号は不鮮明)。第2巻第7話の最後で、ケンヂが手にしている遠藤貴理子様あての謎の手紙の宛先も、「世田谷区」と読めなくもない。これらの宛先が、新宿と世田谷のどちらなのか、命を賭けるとしたら世田谷を選ぶ。


 記憶の範囲内では、物語に世田谷という地名が出てくるのは第13巻のメゾン・アナンスタンの所在地としてのみだが、他にも気になる点がある。育った町で就職したとは限らないとしても、ドンキーとヨシツネの勤務先に関することである。ドンキーが最後に教鞭をとったのは武蔵山工業高校である。13番田村マサオはその学校での教え子であった。

 武蔵山といえば昔の横綱四股名であり、武蔵山高校といえば「YAWARA!」だがそれはともかく、武蔵国といえば古代から徳川時代に至るまで、大雑把に追えば今の東京都と埼玉県のあたり。先月、一般公開された東京スカイツリーの高さ、634メートルは周知のとおり「むさし」からとったものです。


 もっとも、武蔵国と隣の下総国の境は隅田川なので(だから、両国橋という名前が付いたと聞く)、その東岸にある墨田区スカイツリー周辺が、かつて武蔵国に属したことがあるかどうか私は知らない。昔の川は蛇行するし、どっちみち今は東京だから、誰も気にしない。

 高校名は武蔵山と「山」が付いているので、これは隅田川周辺の低地ではなくて、武蔵野台地のイメージである。正確にいうと武蔵野台地は、その先端に上野公園の西郷さんや皇居も乗せているのだが、台地らしくなるのは池袋・新宿・渋谷・品川をつなぐ南北のライン(山手線や山手通が走っている)の西側であろう。東京都の「水準基準成果表」(基準日・平成23年1月1日)をみると、丸の内や銀座は海抜3メートル前後だが、世田谷区は30メートル以上ある。


 ヨシツネの勤務先らしい看板が第5巻に出て来て、「株式会社オリコ―商会」となっている。これとは別の企業なのか、それとも社名変更したのか分からないが、第4巻でケンヂと相談中のヨシツネが座り込んでいる駐車場には「オ―タマ商会 O'tama」と書かれた車が停まっている。ヨシツネはネクタイ姿で影が短いから、会社のそばで昼休みだろう。

 この社名は多摩を連想させる。世田谷は現在の東京都の地域区分でいうと23区内だから多摩地区ではないのだが、世田谷の西隣の調布は多摩だし、世田谷区と神奈川県の境は多摩川なのだ。なぜこんなに詳しく、しつこいかというと、私は昔、世田谷区民だったからです。


 世田谷で暮らしていた当時、最寄の駅は京王線の明大前で、国道20号線すなわち甲州街道に面したマンションに住んでいました。新宿まではこの道一本で、歩こうと思えば歩ける距離にある。

 血の大みそかの夜は、万丈目が首相の前でパフォーマンスを繰り広げたが、その中に、友民党のモニュメント(偽の太陽の塔)をバリケードにして巨大ロボットをくい止める計画が出てくる。このモニュメントは国道20号線を移動してきて、東側から来た巨大ロボットに対峙した。世田谷・杉並方面から運ばれてきたことになる。


 私は1960年代の東京を全く知らないため、新宿にしろ世田谷にしろ当時の様子が分からないので、「20世紀少年」の絵柄だけで、どちらがふさわしいのか何も言えない。ただし、地理や歴史の知識によれば、新宿区の大半は山手線の内側で、江戸時代は町人が住んでいたに違いない地名がたくさん残っている古い土地柄である。

 これに対して世田谷ほか武蔵野の宅地開発が始まったのは明治期以降であり、戦前も緑が豊かに残っていたとも聞く。ケンヂたちの町は、60年代はまだまだ自然が残っているようである。作者のご出身地である府中にも近い。それに世田谷は高級住宅地である一方、今も昔ながらの商店街がたくさん残っていて、この点は下町自慢の我が家周辺の各区よりも、よほど昔懐かしい風景である。

 なぜか武蔵野や多摩には縁があって、三鷹や東村山や八王子に住んだこともある。東村山は第20巻に出てくる。ケロヨンのソバ畑とキリコのワクチン開発施設がある共同体だ。それはまだ先のことなので、次回は第14巻に戻って、結論のない「スイッチ論」に入ります。



(この稿おわり)




上智大学前より、四谷見附の交差点を望む。ここから東が新宿区。真っ直ぐ行くと新宿駅に出て、右に進むと市ヶ谷で靖国通りに合流する。巨大ロボットの進路の候補として挙げたが、あの図体で御苑トンネルを抜けるのは無理だろう。
(2012年6月29日撮影)




太平洋(2012年7月8日撮影)