おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

シンクロニシティ (20世紀少年 第369回)

 第13巻第4話のタイトル「再会の時」とは、漫画家角田氏とウジコウジオ両氏の再会場面です。第4話の冒頭では、例の市原弁護士が公園のベンチで、新聞を読みながら文句を垂れている。報道内容自体は、海ほたる刑務所を含む重刑務所に収容されていた思想家、作家、政治犯など3,000人が恩赦になるという吉報。

 恩赦とは、おめでたいことや、おめでたくないことが起きたときに、なぜか囚人の刑罰が取り消し又は軽減されるという制度で、世界中に昔からあるらしい。今の日本も制度上はあるが、私はそれが実施されたという記憶はない。刑の軽減も含まれるから必ずしも釈放とは限らないと思うが、どうやら”ともだち”が死んだだけで、今回は全員が釈放らしい。


 今までの苦労は何なのさ、というのが市原弁護士の不満だが、加えて、自粛ムードでお気に入りのタコ焼き屋が閉店になっているのも不満であり、それより、彼女はまたしても手提げ袋をたくさんぶら下げて来ていて、どうやらまたも盗聴か何かで事務所を閉鎖しなければならなくなったようだ。しかし、新しいオフィスも見つかったらしい。不撓不屈。

 ベンチの隣に腰かけたユキジは口数が少ないが、弁護士に「これで終わったと思う?」と訊かれ、しばし時を措いた後、「私は忘れない、ケンヂ...」と呟いた。彼女に限らず、これまでは、地球の平和のために”ともだち”と戦ってきたのだが、これからは、ケンヂのために”ともだち”の残党と闘うという構図になってくるような感じ。


 弁護士が置き捨てた新聞に、元厚生労働大臣の三ッ木康隆氏の急死のニュースが載っているのを見てユキジが驚く。彼女成田で麻薬取締官をしていたころの上司にして、”ともだち”の幹部であった男は、トレーラーの下敷きになって死んだのだ。これは事故か。事件か。

 同じころ、同じ新聞を読んで大喜びのウジコウジオが、常盤荘大家の貴子さんに叱られている。恩赦で釈放される「思想家、作家、政治犯」には、どうやら漫画家も含まれているようで、受難の時代が終わったのだ。みんな戻ってくると喜ぶ二人に、来客があった。角田氏、ショーグン、カンナの3人。


 哲学や物理学には、因果性という考え方があるらしい。原因があるからこそ結果が生ずるという法則性で、日常的には因果関係なんて当たり前といえば当たり前のような気もするが、われわれは時々、この関係の理解に混乱をきたすことがあり、卵が先か鶏が先かと言って悩む(あるいは、悩むのを放棄する)。

 因果性を煎じ詰めて、すべては原因と結果の関係によって世界は自律的に成り立っているという発想を、因果律と呼ぶらしい(専門家ではないので、詳しく正確に知りたい方はご自身で調べてください)。この考えに敢然と反旗を翻したのが、心理学者のユングであった。


 彼が提唱した「シンクロニシティ」という概念は、日本語では共時性とも訳され、河合隼雄さんによれば「意味のある偶然」である。しかるべき共通の原因もないのに、意味のある出来事が時を同じくして起きる。私はごく直観的に、これは真実だと思う。誰かのことを考えていたら当人から電話が架かってきて大事な話だったなどという偶然は、それこそ日ごろ当たり前のように起きる。「ポリス」のアルバム名で多少は名が知れるようになったか。

 共時性という日本語訳は、「同時に」という意味合いを込めている。シンクロナイズド・スイミングの「シンクロ」と語源が同じで、何かと何かが同じ時、同じ場所で同調するのである。例えば、カンナが常盤荘に入居したとき、隣の部屋にウジコウジオの二人が住んでいたのは単なる偶然である。彼らがカンナに興味を持ったのも、拘置所時代の角田氏への手紙にカンナの話題を載せたのも偶然である。


 角田氏が独房にぶち込まれたのも、そのとき一部屋しか空いていなかったのも、その部屋が囚人3番の向かいだったのも、すべて偶然である。しかも、同じころ背番号13に出動命令が出た。角田氏情報と13番情報がスパークして、ショーグンの闘争心と焦りに火を付けた。

 これらの偶然の連鎖がなければ、オッチョは歌舞伎町教会の集会に間に合わなかったかもしれないのだ。俺の人生に偶然はないとショーグンは言うだろうが、ユングに言わせれば教科書に載せたいようなシンクロニシティであろう。この5人をこの場に揃えて、再会を喜ばせたのは浦沢さんの配慮というものでしょう。


 しかし良いニュースばかりではなかった。角田氏は恩赦ではなく脱獄したのであり、宝塚先生ほか常盤荘の元同志たちの安否は不明である。だが、力を落としている暇はない、必ず彼らは帰ってくると角田氏は考える。「それまで僕らのできることは、漫画を描くことだ」と角田氏は男の顔で言う。ところで、脱獄犯にも恩赦は適用されるのだろうか? 大丈夫か、角田氏は。

 その漫画の主人公は決まっているのだ。読者の支持、間違いなし。だが、紹介しようとしたショーグンの姿がない。カンナが、探してくると言って外に駆け出す。オッチョは常盤荘まで角田氏を送ってきた。お礼と警護を兼ねたものだろう。角田氏なくして脱獄も、山根捜しも、夜の理科室も、ここまで順調には運ばなかったに違いない。角田氏を仲間のもとに無事、送り届けて、この件に関するオッチョの役目と儀礼は終わった。


 カンナはおそらく、コイズミと保健室で語り合った日以降、自宅には戻っていなかっただろう。私はこのシーンの常盤荘でのカンナのが好きで、久しぶりに十代の娘らしい明るく豊かな表情を見せている。でも、それはほんの束の間のことだった。ようやく追いついたオッチョおじさんは、鉄道高架の下をくぐろうとしている。新宿・大久保近辺だから中央線か。

 どこ行くのと訊いたカンナにオッチョは「まだ何も終わっていないからな」と言い放つ。この会話の詳細は次回に譲るとして、結局、オッチョはカンナを置いて去った。「君はここで母さんを待て」というのが、オッチョおじさんの要請であった。しかし、カンナは母さんを待ってなどいられなかったし、ここでじっとしてもいられず、「とんでもない計画」を立案、実行することになる。それは第14巻でのお話し。



(この稿おわり)



 

爛漫(2012年4月30日撮影)