おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

温泉湯けむり殺人事件  (20世紀少年 第343回)

 当初この物語は放送室から始まって、これから図書室に向かい、間もなく理科室で一つのクライマックスを迎える。毎日毎日、一つの教室に朝から午後遅くまで閉じ込められる小中学生にとって、何々室に行くのはちょっとした学校生活上のアクセントになる。そういえば、保健室も職員室も出て来ました。

 第12巻の第5話「図書室」、オッチョが卒業した小学校は校舎が建て替えられていて、ちょっとモダンな建築になっている。ショーグンと角田氏は、たぶん屋上からロープを垂らし、窓を割って開錠し侵入した。窓ガラスは、穴を開けるべき鍵の周辺以外をテープなどで貼って固めておくと、激しく割れて音を立てることなく、こういうふうに上手く割れるらしい。


 ロープはそのまま。これは緊急時の逃げ道として確保しておいたのだろう。そして実際にここから緊急脱出したのではないか。赤外線センサーは階段にしかないことも確認ずみ。なんせ天下の大脱走の経験者二人組、手抜かりはない。そして、二人は山根の言葉を頼りに、絶対に誰にも借りられない本を探すため図書室に入った。

 ところが見つからない。角田氏は、貸出禁止とか辞書コーナーとかのキーワード検索で探し、ショーグンは棚から棚へと、意外に地味な方法で調べているのだが、どちらも出て来ない。しかし、諦め気分の漫画家が、かつて父親が上巻しか買ってくれなかったスティーブン・キングの本の話をしたのを聞いて、ショーグンは下巻しかない本を探すというアイデアを思い付いた。


 角田氏はその途中で、男子トイレに寄っているのだが、廊下で「コト」という音が聞こえて、夜の学校は怖いと騒いで戻り、ショーグンに叱られている。夜の学校なんて、行ったことがないので分からない。だが、去年の大震災以降、こんな私でも、少し敏感になった。建物というのは、きしんだり風に揺れたり通行車両の振動に共鳴したり、意外と動きや音の出るものだ。

 角田氏が驚いたことに、学校に限らず怖いものだとショーグンは言う。第12巻にはモンちゃんとドンキーの思い出が何か所かに出てくるのだが、ここではオッチョが6年生の夏休み最後の夜、理科室の「ブクブク」のスイッチを入れに行くのに同行してくれと頼みに来たときのことを思い出している。


 だが、オッチョは断った。1年前、話せば長くなる首吊り坂の肝試しで、彼は幽霊を見た。どうやら、彼の主観では、本当にあったことらしい。しかし翌朝の通学路で、オッチョに会ったモンちゃんは睡眠不足なのか目を腫らして、「いやホント、オッチョ、夕べ来ないで正解」と思いがけないことを言った。

 モンちゃん自身が何か怪しげなものを見たのではないことは、この場面での少年モンちゃんの発言からも、第1巻に出てくるドンキーのお通夜で、彼とケロヨンが話した内容からも分かる。だが、一人で夜の理科室に乗り込んだドンキーは何かを見た。モンちゃんがいくら尋ねても、科学少年であるはずのドンキーは何も話そうとせず、そのまま一生を終えた。


 87ページ目に、「モンちゃん...」と呟くオッチョの横顔が描かれている。モンちゃんを襲った運命について、オッチョが知っているのかどうか、読者には分からないのだが、これは行方不明者を心配している顔つきには見えない。おそらくオッチョは神様から、神様はユキジから聞いたのだろう。二人の男は友民党本部で別れ、それきりになってしまったのだ。

 さて、悲観的なことばかり呟いている漫画家を尻目に、辛抱強く探し続けたショーグンは、1967年発行の下巻だけのサイン本を探し当てた。「なんとか温泉湯けむり殺人事件」。きっと女湯と人殺しが出てくるに相違ないのだが、そんな本、よくもまあ小学校の図書館に収めたものだな。


 ショーグンがパラパラとページをめくる。果たして、一枚のメモがハラリと落ちた。
   ひみつ集会のおしらせ 
   日時 西暦のおわる年 2015年元日の夜
   場所 理科室

 ちなみに、88ページ目の壁時計は午前3時過ぎを指しているので、正確に言えばすでに1月2日である。だが、そんなことはどうでも宜しい。深夜0時に日付が改まると決めたのは、どこかの西洋人であって、それまでは(というより、今の私たちの日常的な感覚でも)、夜はその前の昼と同じ日に属しているのであり、朝を迎えてこそ新しい一日が始まる。


 やはり、オッチョの人生に偶然はなかった。大福堂製薬の株の噂 → 戸倉 → 山根の実家 → 小学校の図書室と辿り続けて来てみれば、お客さんは今この校舎内に集まっているらしい。この招待状は46年間も、ここで待ち続けていたようだ。書かれた当時は、西暦の終わらせ方でも密談するつもりだったのだろうか?

 82ページ、「秘密の連絡に使う本」なんて、子供が作りそうな話だと疑う角田氏に、ショーグンは「”2000年血の大みそか”も、巨大ロボットも、元は子供の作り話だったんだ」と言った。子供の作り話、子供の遊び。これらは後半も繰り返し語られる、この物語の一番重要なテーマである。


 数年前、仕事で知り合った教育学の研究者が、あるお役所に小学校教育か何かの論文を寄稿したところ、「子供」が全部、「子ども」に書き換えられていて、抗議をしたが「決まりは決まり」ということで駄目だったらしい。今や、お役人もマスコミ各位も、こぞって「子ども」と書くようだ。

 「共」という字は、使用禁止なのか? 時代劇など見ていると「野郎共」とか「お供します」とかいった表現が出てくるが、そこには確かに旧態の上下関係があるとしても、当時なりの親密な人間関係がなければ使われ得ない言葉のはずである。差別語ではない。それなのに今や、近代的な自由と平等の精神とやらに反するとでもいうのだろうか。一部平仮名に替えれば、意味が変わるのか。高級品になるのか。


 幸い「20世紀少年」では、ちゃんと「子供」という漢字表記が使われている。ガキ共と同じ意味で使われている。大人を怒らせ困らせ、叱られても悪さを繰り返す賑やかな連中という意味で正しく使われている。ただし、その一部は、大人になってからも大人の振りをしつつ、中身がてんで子供のままだったから困ったことになったのだ。

 さて、しばらくオッチョ達に付き合ったので、秘密基地のヨシツネ、ユキジ、コイズミの会話に移ろう。オッチョがその判断力と行動力を大いに発揮して真実を突き止めんとしていたころ、この3人は基地内で危うく行き詰まりかけたが立ち直り、想像力と記憶力を以て真相に迫りつつあった。


(この稿おわり)



近くの小学校(2012年4月19日撮影)