おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

話はもうおしまいだ   (20世紀少年 第357回)

 どうもここ数回、このブログは感想文というよりも我流の解説文のようになってしまっていて、正直なところ表現・内容ともに躍動感やユーモアに欠ける。手に汗握るような戦闘や冒険の場面ではないので仕方がないのだが...。しかしながら今回も、まだもう少し”ともだち”のチャイルディッシュな言い分に付き合わなくてはならない。

 「誰も見ていてくれなかった」と彼は言う。スプーン曲げのことである。クラス会のときは、確かに関口先生しか見ていなかったようだ。小学校のときは分からない。それにしても、このたくさんのスプーンの曲がり方は尋常ではない。ユリ・ゲラーは時間をかけて一本だけを「のけぞらせた」だけなのに、給食のスプーンは瞬時に全部がグンニャリと曲がったのだ。


 手を挙げたのが彼だとしても、曲げたのが彼とは限らない。でも、これはいくら詮索しても答えが出ないのでやめる。もし本当に、彼がこれほどの超能力を持っていたのなら、ほかに立身出世の方法がいくらでもあっただろうに。

 「見てよ、誰か見てよ」というのは、本人にとって切実な問題だったかもしれないが、最近あまり日常的に使われないようだけれど、自意識過剰という言葉がある。広辞苑によれば、自意識とは「自分自信がどうであるか、どう思われているかについての意識」。この男は「どう思われているかの意識」が過剰の二乗なのだ。


 続いて彼は首吊り坂のテルテル坊主の話もしている。「だれか驚いてよ」と言っているが、怖がりのモンちゃんやコンチにまで大爆笑された粗悪品であった。しかし彼は、「あんな”よげんの書”じゃだめだ」と他人のせいにしている。

 ”よげんの書”には、当たり前だが、スプーンが曲がるとか、首吊り坂に幽霊が出るとか、君がヒーローになるとか、彼のご都合に合わせたことなど書かれてはいない。まあ、こういう遊びに加えてもらえなかったことに反発や嫉妬を覚えるのは子供なら普通のことだし、また、それなら自分は「しんよげんの書」を書いて見返してやるという子は褒めても良いくらいだ。だが、この歳になるまで悶々と引きずったままとは。


 すでに山根は覚悟ができているから、手厳しい反論に移った。「しんよげんの書」の「しん」は、制作当時、「新」か「真」かの議論があったそうだが、どっちみち「にせものなのだんだから」どうでも良いことだという。話を合わせたり、一緒にクスクス笑ったりしたが、「君が嘘つきだってこと」は知っていたのだという。後からなら何でも言える。どっちもどっちだろう。


 山根は問う。一番隠しておきたいのは、1970年の嘘なのか、1971年の嘘なのか。自答して、「そうだよな、あれを隠しておきたいんだ」というのは、物語の後半で明らかになる、ドンキーが1971年に見たもののことだ。「だから”ドンキー”を”絶交”したんだ」というのは、あくまで山根の解釈である。そんな理由で殺されたとしたら、ドンキー自身も、事の発端を招いたモンちゃんも、全く浮かばれないではないか。

 第1巻から第2巻にかけて語られているドンキーの関与と死は、むしろ、かつて担任した生徒、田村マサオの親から相談を受けて調べた結果、”ともだち”の正体に近づきすぎて”絶交”されたという印象を与える。チョーさんと同様である。少なくとも、私はそう感じて、そう書いてきた。どちらも有り得るか。両方かもしれないか。私はドンキーが好きなので、こんな意味不明の死に方のまま、終わってほしくない。もう一度、彼には出て来てもらわなければならない。


 「今度は僕を”絶交”する気かい?」と山根は喧嘩を売った。ドンキーと山根が見たものとは、先ほど山根がオッチョたちに語った「”ともだち”は、この理科室で死んだ」ことではなく、嘘つきのくせに大事な「嘘をつきそこなった」という大失敗であり、ドンキーがそれ故に死んだなら、自分も同じ目に遭わされるはずだと山根は言っているのだ。

 「話はもうおしまいだ」と友達は言った。断交宣言。「この理科室は僕の部下が包囲している。君らはこの教室から生きて出られない。」と、悪はその本性を現したのだ。山根は嘘だと動じない。ショーグンは「角田、逃げろ」と戦闘準備に入る。この判断の差が、両者の命運を分けた。しかし、意外なことに、最初に動いたのは山根だった。



(この稿おわり)



シロツメクサの群生(2012年5月12日撮影)