おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

13階    (20世紀少年 第167回)

 第5巻の153ページ目、走りに走ったケンヂが辿り着いた建物には、「TAKATORIYA」という大きな看板が立っている。これを漢字に転換すれば、この辺りに実在するデパートの名前ととても良く似ている。幸いエレベーターが稼働し、ケンヂは13階で降りている。エンパイヤ・ステートビルも見えた。

 実際にモデルとなったデパートは、14階建てであるが、13階と14階はレストラン階になっていて、13階にはオープン・スペースがある。最上階にはリモコンを操作できるような場所がないから、ケンヂはこの建物の構造を良く知っていたに違いない。彼が走ってきた方向からは、オープン・スペースは見えない(反対側にある)。

 
 そこでケンヂが見たのは、ピストルを構えたフクベエであった。そのフクベエが「見つけた。あいつだ。」と叫ぶ彼方を見渡せば、鉄柵の外側という危ない場所に、忍者ハットリくんのお面をかぶった男(たぶん)の姿があった。

 フクベエは、「あの位置からなら巨大ロボットの動きを正面から見下ろせる」と言うがよく知っているな。彼の位置からでは見えないはずだが。このとき巨大ロボットは、この建物の東側(JRの線路の反対側)から、こちらに向かって進んでいる。


 フクベエは、ハットリくんのお面の男が持っているパソコン状のものがリモコンに違いないと述べ、「あいつを撃てばロボットは止まる。すべて終わるんだ。」と主張するのだが、私も驚いたことに、ケンヂは制止した。理由は、その男が”ともだち”ならば、カンナの父親だから撃つことになってしまうからである。

 ここで私が悩んでも仕方がないが、疑問が二つある。一つは、もしもケンヂが止めなかったら、フクベエは拳銃を発射しただろうか。もう一つは、これに続く行動をフクベエがとらなかった場合、ケンヂはどうするつもりだったのだろうか。


 フクベエは、もしも本物ならば(同じ顔の男がいる以上、常に偽物である可能性がつきまとう)、カンナの父親が”ともだち”であることを知っているし(偽物も知っているだろう)、そのことをケンヂが知っていることも、ともだちコンサートのやり取りを経て、知っている。だから、ここで驚いているのは明らかに演技。

 したがって、ケンヂが止める確率が高いとみて、それに賭けて計画を立てたとしても不自然ではない。万一、ケンヂが止めなかったとしても、その後と同じ行動を取ろうと思えば自在にできる。もしも拳銃を撃って当たってしまったら、そのあと逆に面倒な展開になってしまう。自分が死んだふりができなくなるからな。


 他方で、ケンヂはどうするつもりだったのか。まずは話合いと説得か。実際、彼は、ともだち暦3年の騒動において、戦闘行為には訴えずに、「二人目のともだち」を説得しようとしている。彼は人殺しができない。正当防衛であろうと、緊急避難であろうと、正義のためであろうと、世界の平和のためだろうと殺人はしない。

 こう考えると、このあとの展開は、フクベエのたくらみとケンヂの性格からして、なるべくしてなったと考えて良かろうな。これまで、この感想文は、ケンヂたち登場人物の言動から、その心境を想像しながら書くのが楽しみの一つだったのだが、ここから先は、しばしばフクベエほか、”ともだち一派”の相手もしなければならなくなるので気が重い。


 気が重いが避けて通る訳にもいかない。彼らは悪魔でも宇宙人でも害虫でもなく、われわれと同じ人間であり、われわれの心にある暗さや悪さを、過分に持ち合わせてしまった連中というふうに、私は考えている。そうでなければ、後半においてケンヂやフクベエの少年時代の出来事が刻銘に語られるはずがない。

 ということで、まずは、ここまでの私の理解に基づいて、フクベエとは誰かを考えてみる。このブログで既に触れたことばかりなのだが、もう一度、整理してみる。暗い話題だが、この作品が心理劇の側面を持っている以上、仕方がないのです。


(この稿おわり)



遅咲きの朝顔(2011年11月10日撮影)