おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

遊び  (第1019回)

 長いこと映画の感想文から離れてしまった。今回は、まじめに映画を語ろうと思う。この作品は、特に2000年において、何月何日の出来事であったのかを字幕で教えてくれる。のろしが上がったのが12月28日で、そのあとは大みそかだ。それまでどおり、ずっと時系列に並んでいるのならば、ずっと大みそかのはすだ。

 一つだけ、日時が不明の短いシーンがある。暗い部屋に忍者ハットリ君のお面をつけた男が座っていて、「みんな、集まったね。けーんじくん、遊びましょー」と言う。部屋はどうやら教祖の個室らしい。正面に大きなスクリーンがあり、東京の地図らしきものが複数、表示され動いている。一番右の図は、まず間違いなくロボットの移動経路だ。


 この直前の場面は、商店街の路上ライブとカンナが戻って来たシーン。そして、この直後はバイクの二人組が、運命の場所に向かって白山通りを走っているところ。したがって先述のとおり、このセリフ入りの短時間のコマは、日付が無いし、時間の順序で並んでいるのなら、大みそかの夜のはずだ。

 この想像どおりとすると、「フクベエ」は当日このころ、ずっとケンヂたちと同行しており、彼らが離れ離れになって役割分担するのはまだ先のことである。もしも、暗い部屋でひとり悦に入っている男が本物の”ともだち”であるのなら、佐々木蔵之介演ずる「フクベエ」は誰なのだ。


 ちなみに、佐々木さんのご実家は、芸名が語るように酒屋で、私が大学時代に下宿していた京都府上京区にある。同じころ、近くにお住まいだったはずだ。それはともかく、映画では「身代わり」が何人か出てくるし、お面だから幾ら考えても、どれが本物なのか分かりようがない。でも気になる。

 そもそも原作の漫画でさえ、設定が異なるとはいえ、一緒に地下にいたのが同級生だったハットリであるという確証はない。なんせ、同じ顔の者がいるし、1997年の段階でチョーさんに「複数いる」ことを見抜かれている。それに、何度も書いたが地下生活の期間、血がつながっているはずのカンナとの交流なりお互いの反応なりが全く無い。


 普通に考えれば(普通の人ではないので無意味だが)、「しんよげんの書」を書いた者が”ともだち”である限り、この大事な時期に地下水道の脇で、集団生活をしている場合ではあるまい。それに、大みそかは特に高みの見物をしたいはずだから、この暗い部屋で「遊びましょー」と言っている姿こそ彼にふさわしい。

 それに御身大切な立場ゆえ、幾ら仕掛けがあったとしても、ビルから落ちるフリをして万一のことがあったら大変である。映画には出て来ないが、フクベエは1970年に理科室の仕掛けで大失敗をしているのだ。私なら、現場担当に影武者を使う。それに「みんな、集まったね」という言葉は、自分がその中にいたら使うまい。ただし、この案の欠点は、そうすると一緒に遊べない。


 では、彼が執拗に「遊びましょー」と言っていた「遊び」とは何だ。思うに子供のレベルで誘っている以上、高みの見物という遊びではなさそうだ。この点は漫画の筋を借りないわけにはいかないのだが、フクベエは子供のころ、ずっとケンヂと遊びたかったのであり、カツマタ君の場合は本心など分かりようがないが、「遊びましょー」はしっかり先代のマネをしている。

 「よげん」が当たったというようなことは、枝葉末節の手段に過ぎない。では、この肝心な「遊び」が何だったかというと、身勝手な遊びにつき合わされたほうのケンヂたちが見せた当然の反応が、その目的を物語っている。「私は誰でしょう」ということだ。根底に、誰なのか分かってほしいという願望がある。


 「21世紀少年」上巻で、円盤の下敷きという珍しい事故に遭った”ともだち”は、お面を外そうとするケンヂに抵抗し、お面を外したら僕たちの遊びが終わってしまうと、事ここに至って、まだそんなことを言っている。なぜ外したら終わりなのか不思議に思っていた。でも、そんなに難解な謎ではないのだろう。順調にいけば、フクベエ(漫画のほう)のマネをしたかったに違いない。何のマネか。

 一般に「私は誰でしょう」という遊びは、正体を明かして相手が驚くのが何よりの楽しみであるに違いない。そして本作品では、それに加えて他者からみれば独りよがりの「復讐」でもあるから、驚くと同時に怒らせたり怖がらせたりして愉しむという卑屈な要素まである。

 古典文学を引き合いに出すと叱られそうだが、この点は「モンテ・クリスト伯」と同じ仕組みだ。そして原作の「フクベエ」は、血の大みそかにニセモノ太陽の塔の腕に乗って、自らお面を外し、その目的を達成している。


 もう一人の”ともだち”にとっては、少し事情が異なる点があり、お面を取って驚かすシナリオは同じであっても、「お前か」と言って驚いてくれるのではなく(ここは、悪人とは言え、ちょっと悲しい)、マルオがびっくりしているように、同じ顔に驚いてほしかったらしい。でも、ケンヂは静かであった。何が起きても驚かない人にしてしまったとは、自業自得である。

 なお、我らの主人公は、同じ顔であることを、すでに察していたのかもしれない。何せ「復活」して、マネのマネを繰り返してきたのだ。そして、フクベエの素顔は、万丈目を始め多くの人が知っている。世紀の変わり目に、ケンヂも見ている。例え整形を繰り返してでも、同じ顔でなければ本人の書いた脚本が通用しなくなってしまう。


 権力者になって以降の彼らは、ケンヂを抹殺しようとすれば、いつでも容易にできたはずである。でも、その遊びを続けるためには、生きていてもらわないと困る。特に映画では、その意図がはっきりと見て取れる。

 漫画の場合、すり替わったほうの”ともだち”は、うっかり先に自分が死んでしまったが、遊びは執念でケンヂをヴァーチャル・アトラクションに引きずり込んで続けた。まだ、「私は誰でしょう」が終わっていないのだから。


 さて、私は無造作に「巨大ロボット」と書き続けて来た。しかし、漫画でも映画でも、特に最初のうち、そう表現しているのは「よげんの書」を知っている人たちだけで、報道もコイズミの教科書や先生でさえ、見た通りに「巨大物体」と呼んでいる。いかに出来が悪かったかが分かる。この時間と技術の不足が、敷島教授に再登板の機会を与えることになる。

 映画の場合も、この巨大物体の移動経路は、靖国通りを新宿方面に向かっている。かつて私は何百回と歩いて渡っている市ヶ谷の橋を、あのタコ頭が渡れるのかと書いたのだが、映画では渡っている。橋の幅は約15メートル。駅も水道管も周囲の建物も、本物そっくりだ。





(この稿おわり)





上野近辺にて (2016年5月2日撮影)







市ヶ谷近辺にて (2000年12月31日撮影か)
 



















 I'd ask my friends to come and see
 an octopus' garden with me

   ”Octopus' Garden”  The Beatles























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