おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

寺院に潜む放火犯     (20世紀少年 第123回)

 タクシーの象から降りて散々歩いたオッチョは、密林の中の寺院に辿りついた。石造りの寺院といえば、古代クメールのアンコール遺跡群が名高く、タイにもカンボジア国境方面には幾つかの遺跡があると聞く。もっとも、アンコール遺跡は多くがヒンドゥー教のものであり、第4回95ページ目の絵にあるようなストゥーパはない。

 それに、どうやら入口にアーチが使われている。アンコール遺跡の建築様式はアーチを持たない。アーチなしであれだけの石造建築物(というか石造りの大都市)を作り上げたとは大したものではないだろうか。ともあれ、オッチョが捜しあてた寺院は、ミャンマーバガンの建築様式に近いか。


 もっとも、宗教施設として使われているわけではなさようだ。寺の前に怪しげな男(女かな)が一人、煙をたいてお茶をたてている。煙にむせたオッチョが無造作に、勧められたお茶を飲むと相手の顔が歪んで見えて、オッチョは慌てて吐き出している。彼はのちほど「毒も薬も俺には効かない」と述べているが、実はちょっと効いている。

 寺院の中に入ると、そこには見るからに薬物中毒らしき無数の人々が居た。ぼんやりしている者もいれば、笑っている者もいる。一般にドラッグは鎮静作用があるものと、覚醒作用があるものに大別されるが、そのどちらともつかない感じだな。いずれにしても幸せには見えない。廃人の収容所か。


 この寺院を管理している男は、かつてケンヂのコンビニと住居に放火した連中のリーダーだったタラコ唇の青年であった。「恐怖にようこそ」と言っている。オッチョはここでもヤクを飲んだ。七色キッドは錠剤ではなく飲みものらしい。

 この麻薬の効用は、過去を思い出すものらしく、オッチョは先ず商社マンだったころ、続いて師匠から奪い取って食ったキノコが毒キノコだったこと、翔太君が死んだときのことなどの記憶を蘇らせている。人間には思い出したくない過去がたくさんある。それを引きずり出すとは、まさに恐怖の麻薬であろう。
 
 放火犯の男によると、ともだちだけが、この恐怖からの救済を施せる存在らしい。どうやら、ともだちは信者(?)にこれを飲ませて怖い思いをさせ、しかる後に解毒剤でも与えて助けたふりをしているのではないかな。多くの宗教が、地獄とか洪水とか最後の審判とか、信者でないものにとっては単なる脅迫ともいうべき装置で、先ずは人を怯えさせると同様の仕組みか。


 オッチョが師匠から得た最高の教えは、恐怖から目をそらすな、しかと眼を開いて恐怖の正体を見つめよ、というものだった。これが強くなりたいという彼の願いを叶え、危険が迫るたびに脳裏をよぎり、その精神を支えている。オッチョは世界の滅亡の日が来ると狂乱する放火犯に、この教えを伝えた。

 放火犯はこれで開眼したのだから、オッチョにとっては初めての弟子と呼んでもいいな。彼は目をそらしていた恐怖、すなわちケンヂの家を焼いた際に仲間を焼き殺したこと、その功績で麻薬製造工場の工場長になったものの、怖くて逃げだして寺院に逃げ込んだことを白状した。


 オッチョはようやく当初の目的である七色キッド撲滅作戦の、最終段階に辿りついたのだ。「もう、一度、火をつけにいくか?」という誘い文句は皮肉が効いていて、なかなかの出来である。続いて彼は、師匠に川底へ突き落されたときの思い出話を語った。

 光に向かって必死に泳いだところ、辿りついたのは「天国でも地獄でもない、空気のある”ここ”、ただの現実だった」そうだ。そのあとオッチョはチベットに行ったようだが、彼は逃避してきた現実の世界に戻った。許せない現実の悪と戦うリアリストになった。例えば「何かが決壊するんだ」と語るケンヂが、典型的なロマンチストであるのと対照的である。


 ところで、その意図するところは分からないが、放火犯はオッチョにスライドを見せている。2枚あって、どちらもオッチョには衝撃的であった。1枚目は、何だか分からない代物だったが、禍々しくて黒くて丸くて大きな「破壊の神」だった。血の大みそかを演出することになる巨大ロボット。どうやら製造工場で撮影された写真らしい。

 もう一枚の映像は、ともだちマークであった。放火犯も、まさか目の前の見知らぬ中年男が、このマークの知的所有権の持ち主であるとは知る由もない。彼の目玉と少年サンデーが出典であるとは思いもよるまい。ともあれ、かくて二人は寺院を出た。行く先は七色キッドの製造現場である。



(この稿おわり)



近所の建具屋さんに展示されている衝立。木工品芸術の極致。
(2011年9月30日撮影)