おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

密教     (20世紀少年 第116回)

 司馬遼太郎は、「空海の風景」のあとがきにおいて、「左道密教チベットに入り、土地の土俗密教と習合してラマ教となり、さらに北アジアの草原を東漸してモンゴルに入った」と書いている。「左道」というのは、正しくない道、邪道という意味だから、かなり手厳しい表現です。

 空海よりも後年、本場のインドで密教は性欲崇拝のようなものになったようなのだ。もっとも、このすぐ後に、「ウランバートルのラマ寺院に入って僧侶たちに会い、その教義が、空海真言密教とまったくの他人ではないことを知った」と書いてあるから、全否定しているわけでもないらしい。ちなみに、高野山ダライ・ラマ14世は、親密な関係にある。


 このあとがきで何より印象的なのは、「私がこの作品を書くにあたって、自分に対する取り決めをしたことは、いっさい仏教の述語を使わない、ということであった」という一節である。

 続いて、実は、ちょっと使ってしまって悔いが残るとまで書いているが、それにしても並大抵の決意と努力ではない。この大変な苦労、工夫があってこそ、解説で大岡信が述べているように、「密教とは何かに関する異色の入門書」となっているのだ。


 私は司馬さんの本なら何でも読みたいという理由だけで「空海の風景」を読んだが、密教に関心を持ったので、「密教の哲学」(金岡秀友著)、「空海の思想について」(梅原猛著)、「チベットモーツァルト」(中沢新一著)などを読んだ。

 しかし、どれも密教の述語が全開状態であり(当たり前だが)、難解至極であった。モウさんが、真言密教が大好きというのは良く伝わってきたが...。


 中でも、中沢先生の本は、まるで分からん。冒頭に引用されているチベットでの修行時代のフィールド・ノートだけは面白く読めるのだが(師質相承の様子も伺うことができる)、私には他の部分は駄目だ。

 しかも、解説(講談社学術文庫版)を、吉本隆明が書いているのだが、評論としては見事なものかもしれないが、ますます難解であり全然、解説になっていない。

 もっとも、中沢新一さんは分かりやすい文章も書けるし、素人向けの話もお上手である。近著「日本の大転換」は、この国の今後について、その社会、経済、エネルギー問題を考える者にとって必読の書であると思う。


 密教では、大日如来が全てである。何の全てかというと、司馬遼太郎風に言えば、「宇宙」であり、梅原猛風に言えば「世界」である。「20世紀少年」には、ともだち一派の「述語」として、「宇宙との一体化」という言葉が何度か出て来るが、これは密教において、例えば護摩をたいて大日如来と交信せんとする作法の猿真似であろうか。

 村上春樹は「約束された場所で」の巻末に収められている河合隼雄との対談において、オウムがなくなっても、いつか必ず同じようなカルトは出てきて、同じような事件を起こす可能性があると語り、河合先生も全く異論がない。地下鉄サリン事件が起きたのは1995年。今の世相との間にいくらかの共通点がある。


 当時はバブル景気が崩壊したあとの長い不況下にあった。現在はリーマン・ショックを発端とする金融恐慌から、まだ世界中が立ち直っていない観がある。不安が社会を覆っている。

 そして1995年は、阪神淡路大震災の年でもあった。はたして物語の世界では、ともだちが登場した。現実の世でも、「同じようなカルト」は、すでにどこかで蠢いているのかもしれない。


 脱線ブログらしく、締めくくりも余談で終わろう。先述した村上さんとの対談の中で、河合さんは、オウム真理教も出てきたばかりはプラスの意味を持っていたと思うと語っておられる(ちょうど、ともだちのように)。そして、そのころ「オウム真理教を評価した人たちは困っているんですね」と付け足している。

 先日、中沢新一さんの講演を聴く機会があり、氏は本題が終わってからの余話の中で、宗教について本を書くと、ろくなことがないと苦笑してみえた。河合隼雄中沢新一は、複数の対談集を出すほどに仲が良かった。それぞれ、同じ出来事を語っているはずだ。



(この稿おわり)



仏教といえば蓮の花だが、手元に写真が無いので、もう一度、睡蓮。(2011年9月15日撮影)