おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ツァラトゥストラ  (第1387回)

 二―チェの主著の一つ「ツァラトゥストラかく語りき」は、私の場合、遠い昔に買った中公文庫「ツァラトゥストラ」(手塚富雄訳)が、今も拙宅の本棚にある。手塚さんはゲーテリルケなどのドイツ文学の翻訳をなさっていた。

 「ツァラトゥストラかく語りき」は哲学書に分類されるが、ニーチェは文学者でもある。本書も物語風だ。大学のとき、第二外国語に選んでしまったドイツ語の教授が、ニーチェの文章は力強く美しいと力説していたのを覚えている(この講義で覚えているのは、それくらい)。

 しかも箴言集のような構成が多く、引用されやすい。哲学書の一部を抜き出して語るというのは、品がないし危険ですらあると思うが、今回はそれをやる。国家論があるのだ。「新しい偶像」という章です。


 恥ずかしながら「ツァラトゥストラ」は、何度も挑戦したのに、一度も読了できていない。途中で疲れ切ってしまう。難物であるが、かと言って他の同様の本と異なり、捨てる気も起きない。幸い、国家についての話は序盤に出てくるので、何度も読んでいる。

 ニーチェはプロシャ生まれ。彼の人生の途中で、ドイツ帝国になった。ビスマルクで名高い。「ツァラトゥストラ」の該当箇所に個別の国名は出てこないが、「新しい偶像」というのは「死んだままの神様」と交代した偶像たる国家のことなので、欧州キリスト教国が念頭にあるのは間違いなかろう。


 この章において、ニーチェはまず(ツァラトゥストラの台詞という形式で)、われわれのところに民族や民はない、ここにあるのは国家だけだ、これから民の死について語ると宣言する。以下の青字は、手塚訳の引用です。

 国家とは、すべての冷ややかな怪物のうち、もっとも冷ややかなものである。それはまた冷ややかに虚言を吐く。その口から這い出る虚言はこうである。「この私、国家は、すなわち民族である」と。それは虚言である。

 多数者をおとしいれるために罠をかけ、その罠を国家と称しているのは、殲滅者たちである。かれらはその罠の上に一本の剣と百の欲望の餌をつるすのだ。民族がまだ存在しているところでは、民族は国家というものを理解しない。そしてそれを邪悪な目、また風習と掟とに対する罪として憎む。

 善い者たちも悪い者たちも、すべての者が毒を飲むところ、それを私は国家と呼ぶ。善い者たちも悪い者たちも、すべての者が己を失うところ、万人の緩慢な自殺が「生」と呼ばれているところ、それが国家だ。


 切りがない。最後のほうに、今の私には日本国憲法を思い出させる一節があるので、それを転載して終わります。インターネットにはドイツ語ができる人が多いらしくて、「新しい偶像 ニーチェ」などで検索すると出てきますから、この章だけでもぜひ読んでください。次の「真の人間」が、超人のことだ。

 国家が終結するとき、はじめて、余計な人間ではない真の人間がはじまる。そのとき、なくてはならぬ人間のうたう歌が始まる。一回限りの、まにあわせのきかない歌が。



(おわり)



台風一過の御来光  (2017年10月30日撮影)














































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