おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

うまい話には裏がある  (第1273回)

 前回の第25条第2項の続きです。今回は題に「うまい話には裏がある」と書いた。国は少なくとも努力をしてはくれるらしいが、段々と冷たくなってきている点、年金や介護保険に詳しい方はよくご存じのことと思う。それよりも当方と致しましては、現在、不気味に鳴りを潜めている医療保険(健保、国保など)が、どう変わっていくのか心配だ。

 これを心配する理由は、まず私自身、他の社会保障社会福祉のお世話にはなっておらず、保険料をお支払いする身の上だが、なんせ病気が多いので(ちゃんとした病名が付いて、通院しているものだけで、片手の指ではとうに足りない)、医療保険にだけは昔から随分お世話いただいているのだ。いつまで自己負担が3割という制度が持つだろうか。


 今のところ、マイナンバーの情報は、各社会保障制度が単体で管理しているらしく、つまり個人の全情報が一箇所に集中したあげく、一挙に漏洩する心配はない、ということで始まった。この控えめな運用の寿命も、時間の問題だと思う。そのうち、国民の利便のため、ワン・ストップ・サービスが有難くも始まる。

 前に書いたように、30年前に赴任したアメリカが、すでにそうだったのだ。彼の国における社会保障番号の発想を真似たのだから、目的も真似しないはずがない。しっかり税金を取り、だれが優秀な兵士になりそうか、総合的に判断しなければならない。こうして、私たちの個人情報やプライバシーは、自ら公的機関の介入をお招きするという形態で、吸い上げられていく。


 私の力では、第25条の文面だけでは読み切れないが、聞くところ労働法の多くも、この条項に拠っているのだという。では、その親分格の労働基準法、また、生活保護とのバランスが問題視されている最低賃金法の目的条文を見る。

労働基準法: 第一条一  労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。

最低賃金法: 第一条  この法律は、賃金の低廉な労働者について、賃金の最低額を保障することにより、労働条件の改善を図り、もつて、労働者の生活の安定、労働力の質的向上及び事業の公正な競争の確保に資するとともに、国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする。


 「健康で文化的な最低限度の生活を営む」の解釈に際して、前々回でうまい言葉が見つからず「メインテナンス」という片仮名英語を借用したのだが、最賃法の「労働者の生活の安定」という表記が、より分かりやすく馴染みやすい。

 だが上記の続きを読むと、労働力の質的向上、事業の公正な競争の確保、国民経済の健全な発展に寄与というふうに、段々と企業寄りになっているのが分かる。道理で日本の最低賃金は、なかなか上がらない訳だ。


 ただし、仕事の関係で直接間接、零細企業の社長さん達の話を伺うと、賃金制度設計や、労使の賃金交渉は、最低賃金に何円上乗せするかという厳しいレベルでの検討が繰り返されているという実例もよく伺う。米国並みに1,500円にせよという意見もあるが、そうしたら少なからずの零細事業は廃業に追い込まれるか、人員削減を余儀なくされると思う。難しい問題なのだ。

 昨今は生活保護者に対する風当たりが厳しい。この理由は個々に聞くと、それもそうかなあと思うこともあるが(ピンハネとかパチンコとか)、私は自分の心理を判断基準にしている。働けないほど高齢になったら、堂々と老齢基礎年金を必要なら請求する。でも、生活保護者にはなりたくない。もちろんバカにしているのではなく、そのまま立ち直れなくなりそうなのだ。


 生活保護を攻撃しているのは、主にインターネット内でウヨウヨしている者や、石原息子のような政治家であろう。私の知り合いに、大手ではないが報道の会社を営んでいる人がおり、本人も実名で記事を書き、ネットにもよく載っている。その道、何十年のベテランで、記事は国際問題に強く且つ冷静であり、間違っても意味なく近隣国を罵倒したりはしない。

 このため、「ウヨウヨ」から匿名の罵詈雑言のコメントを浴びている。よく耐えられますねと昨年、声をかけたところ、「ああいう人たちは、お金をもらって書いているのです」と他の人たちも聞いている前で、二回ほど仰った。

 そういうことなら、成程あの執拗で口汚い言葉を連日連夜、書き続けるモチベーションも保てるというものだ。これが往々にして「世論」とか「国民の反応」とかいう名目で、マス・メディアにも紹介されるのが、この国の実情だと考えて良かろう。


 今回は愉快なテーマではないが、でも最後にもう一つ、知っておいて損はないと思うことを書こう。第25条第2項には、「社会」という言葉が三連発で出てくる。改正草案におかれては、個人は尊重しないのに、家族とか社会とかいった集団はお好きらしい。統制しやすいのだろう。たぶん、その実例と言ってもよいと思う話題に触れる。

 1) ソビエト社会主義共和国連邦
 2) 国家社会主義ドイツ労働者党

 私はロシア語もドイツ語も駄目なので、教科書や辞書に載っている通常の訳語を使う。一つ目は、若い人はそれこそ教科書でしか知らないのだろうが、昔は日米の不倶戴天の敵とされていたソ連のこと。二つ目は、略称ナチスの正式な党名。


 社会主義といえばソ連という時代に生まれ育ったこともあり、1)については違和感はない。でも、2)はどうだ。ナチス社会主義政党を名乗っている。ただ、「国家」と冠してあるのが不気味といえば不気味か。

 ソ連という、ロシア皇帝の幼い娘たちまで皆殺しにして成立した人工国家体制も、それが生んだスターリンと並んで20世紀の歴史に巨悪として名を残すヒトラーが率いたナチス党も、社会主義という聞こえのよいスローガンを身にまとい、極貧にあえぐ国民全体の「正義の味方」として登場したということを忘れてはならない。


 社会全体がこういう政治団体にすがるまでに疲弊してからでは手遅れなのだ。一方でわれわれは、教育と納税と勤労の現場で消耗し続けながら大変な生活を営んでいるわけだが、働けるのに国の世話になろうとしたら、非常に危ない。

 第2項は最終手段と心得た方が良いと思うな。それにしても、やっぱり「努めなければならない」のままというのは納得しづらい。前回からずっと、何とか自分に言い聞かせようとしてきたのだが、「予算がないから、やめた」で済むことなのか...。


 他方で、第25条が「努め」の規定になっているのは先人の知恵かもしれず、すなわち国が必ず果たすべき義務と位置付けると、余計なおせっかいを招くかもしれない。社会主義的政策は、バランス感覚が重要だ。弱者の救済は、全部が家族の責任でも困るが、全てが国の義務では現役世代の負担が大変なことになってしまう(特に今の日本では厳しいし、もっと厳しくなる)。

 100年安心のはずが改定続きの年金制度のように、子孫を困らせてはいけない。第1項すなわち必要最低限の生活水準の維持は、大原則、自力での達成を目指し続けるのが、三大義務の存在意義だ。でも、くれぐれも過労死にはご注意を。勤労の義務は訓示的なものだと思うが、この件はいずれまた。







(おわり)








(2016年9月24日撮影)



お前の生きかた次第で川のように偉大にもなれるだろうよ

                手塚治虫 「ブッダ





















































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