おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

なぜ警察や消防は憲法に書いてないのか  (第1385回)

 どうしても憲法第9条に自衛隊を明文化したいらしい。これを支持する人々の論法は、しばしば「憲法9条で国は守れない」というものだ。確かに、例えば憲法でミサイルの迎撃はできない。では、明記すればできるのか。

 論点が多くなりそうなので、今回はすぐに考えつく二件に絞る。一つは、抑止力が高まるのかという点。もう一つは、高まりそうもないのなら、次に何をやりたがっているのかという点。以下は全部、個人的な見解と想像です。


 抑止力は相手がどう考えるかによる。それも日々変わりゆく情勢の中で動くものなのだから、もとより完璧な抑止などない。それでも折角の機会だから考えると、まず、ここでいう「相手」とは仮想敵(今は主に北)および同盟国のアメリカ。

 本気で世界征服するつもりだったらしいナチスだの、石油や金属を禁輸されて大陸での戦争が継続できないというだけで対米戦争を始めたときの帝国陸海軍のような頭に血が上ったままの連中は、相手国の憲法に何て書いてあろうと攻めてくる。


 経済制裁の有効性を否定はしないが、追い込み過ぎると逆効果であることは、日本が一番よく知っているはずではないのか。アメリカでさえ、スランプ大統領と国務長官が上手いことマッチ・ポンプを演じており、外交で駄目なら軍事だというメッセージを発し続けている(現時点ですが)。

 これに対し、わが首相はよりによって国連で(しかも総会で、相手の目の前で)、「必要なのは対話ではなく圧力だ」と言い切ったのは記憶に新しい。我が身可愛ければ、北もいきなりアメリカを直撃しそうもなく、ついては、すでに繰り返し実験済みの我が国あたりに試し撃ちをしてこなければよいが。


 去る8月には2回(26日と29日)、ミサイルを飛ばし、その前夜だけ首相が官邸に公開宿泊したことがわかり、国会で話題になった。官邸には多分、核シェルターがある。無いと困ります。一国の政治指導者ですから。さすがの私も、この件で「人によりけり」とは主張しない。

 アメリカも日本が攻撃されただけなら、そして、イラクでの大失敗で懲りたなら、過剰な反撃などせず「目には目を」の程度で、安保条約の約束は履行したというだろうと思う。おそらく拉致被害者が人間の盾にされていることが、全面戦争を食い止める障壁(あるいは言い訳)になる。


 憲法自衛隊を明文化するだけでは、少なくとも与党や右翼が声高に叫んでいる現状の危機には堪え得ない。そのあとで、自衛隊の軍備を強化するはずだ。何度もここで書いたように、軍備は金儲けになる。

 この国は民主主義国というより、資本主義国ですから、経済成長のためなら何でもする。アメリカ様も喜ぶだろう。国民の生命を守るためという大義名分のもとで、際限なく軍拡しそうな気がする。うちに来るツケは、消費増税2%で済むまい。


 私は今、別の目的があって、太平洋戦争の本などを読んでいる。ミッドウェー海戦で、空母は敵の魚雷で沈められたのではない。大雑把にいうと自軍が攻撃直前だったため、爆弾や燃料を抱え込んだ飛行機を並べているところに、敵弾が落ちてきて誘爆、延焼して手が付けられなくなった。

 つまり敵の武器弾薬を攻めても効果がある。以下は私の独創ではなく記事で読んだものだが、そういう手法をとるなら、核兵器を搭載しなくても、原発が狙われたら大変だ。憲法に「自衛の戦争をして国民を守る」と書いたら、書いた以上は憲法違反を問われないよう、あらゆる手段を講ずることになる。


 さて、前々回でも引用した幸福追求権と生存権を定めた憲法第13条および第25条が、その自作自演の根拠法になるのだろう。今一度、掲げます。

十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。


 いまの憲法が成立して以降、日本人の生命と生存を守り続けてきた警察や消防は、憲法に一言も出てこない。書く必要もない。すでに法律が整備され、行政が機能しているからだ(例えば警察庁とか消防庁とか海上保安庁とか)。たいへんお世話になっております。この場を借りて御礼申し上げます。

 前にここで書いたとおり、「すでに法律が整備され、行政が機能している」という点では、いまの自衛隊も全く同じ。正確にいうと、変な法律を作り過ぎており、内心、憲法違反だと分かっているので、これから辻褄を合わせたいらしい。


 第13条がいうとおり、「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」ことを私たちは弁えている。行方不明者の全員を永遠に探せとは言わない。

 二次災害の危険があるならば、「仕方がない」と思う。いつかどこかで、お巡りさんがそこまでやってくれたなら、という感情の整理がつくことを前提に、予算と人員が手配されている。軽症で救急車を呼ぶような輩は、「公共の福祉に反し」の典型であろう。

 
 自衛隊の規模も憲法も現状のままなら、私は同様の心構えであり続ける。隊員に全員死ぬまで働けとはいわない。だが憲法に明記されたらどうなるのだろう。またぞろ、「お国のために」頑張って頂戴という連中が、きっと出てくる。反論できるだろうか。

 現時点では、なぜか選挙戦の正念場というのに、あまり改憲のことは口に出さなくなった印象がある。まして、どのように明文化するのか、一度も見聞きした覚えがないので、これ以上は何も言えない。選挙結果によっては、お手並みを拝見しなければならなくなる。やれやれだ。




(おわり)




鶴は千年 亀は万年 
(いずれも故郷静岡にて、2017年9月撮影)

















































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